今年一番の冷え込みでした、とテレビが言っている。
どおりで指先までかちかちに冷えるわけだ。
凍るような朝焼けの後、毛布の中で身体をぎゅっとちぢこめているともう一度眠たくなる。
時々、人生を助手席に乗ったまま過ごしているような気持ちになる。
流れていく景色、点滅するウィンカー、表示される渋滞情報、時折求められる意見。
「高速には乗らない方がよさそうかな?」
運転手のためにコーヒーの蓋を開ける、そして閉める。
ガムの包み紙を開く、そしてガムを吐き出す時までそれを持っている。
何度でも考えなければならない。
意味や理由や、価値や無価値について、調べたり、考えたり、作ったりしなければならないと思う。
逃げたり追ったり、戦ったりかわしたりするために、考えなければならないと思う。
生きたいかそうでないかのどちらかだと思っていた。
でも今はもう少し考えなければならないと思う。
時々、先が明るすぎて途方に暮れてしまう。
明るすぎるのは何も見えないのとよく似ている上に、どこか脅迫的だ。
幸福でなければならない、と言われている気がする。
不幸になる理由はないのだからと縫い付けられて、自分から息を止めていた。
おれは不幸でも幸福でもなかったが孤独だった。
身体中が冷たくて、息を止めながら、どうやって息をすればいいのか考えていた。
試すのは怖かった。
誰もいいと言ってくれなかったし、そもそもいいのかどうかを聞くこともできなかったから。
助手席に座ってどんどん進む景色を見ながら、誰もいない運転席を知った。
2016年12月18日日曜日
2016年11月19日土曜日
おっぱいとパブとその周辺を漂う小惑星たちについて
おっぱいの話ばかりして申し訳ないのだけど、友人からおっぱいパブの話を聞いて、どうやらそれはおれの想像してたものとはまた違った空間のようだった。
おれはおっぱいパブのことをおっぱいに触っても怒られないキャバクラのようなものだと思っていたのだが、実際のおっぱいパブは1対1で接客するもので、おっぱいに触るだけじゃなくキスとかしてもいいらしい。
下半身に触るのはNGだが、触ってもらうのはOKとのこと。
しかし性欲の最終的な解決はしてくれないので、結局悶々としてしまうらしい。
友人は「心が通じ合わないとおっぱいパブもつまらない」などという全くもって意味不明な世迷言をほざいていたので、何か新手の宗教にでもかぶれてしまったのか?なんて思ってしまった。
心なんて我が学派においてはその存在すら疑問視されているほどオールドファッションな概念だよ。
それをこともあろうにおっぱいパブで持ち出して通じるだの通じないだの、もうPSIの領域としか言いようがない。
『ムー』の世界。
その後も彼は「スナックに行くと落ち着く」などとジェネレーションを軽く2~3は超越した発言を繰り返していた。
どうでもいいが、「おっぱいパブ」という言葉はかなり気持ち悪い。
おっぱいは幼児語だし、パブは幼児語ではないものの響きが幼児っぽいから、幼児×幼児でエロという何とも居心地の悪い空気感を醸し出してしまう。
百歩譲って「パブおっぱい」ならば何とか許せるような気がするものの、それだとパブなおっぱいという意味になってしまう。
それでも、どちらかというよりおっぱいなパブよりはパブなおっぱいの方が楽しそうだなあ……という気持ちだ。
まあどちらにしてもおっぱいパブにはあまり興味がない。
本当だよ。
嘘じゃないよ。
おれ、おっぱいはおっぱい、パブはパブ、ノーパンはノーパン、しゃぶしゃぶはしゃぶしゃぶであるべきだと思っている人間だからね。
厳格ですよそこら辺は。
おれはおっぱいパブのことをおっぱいに触っても怒られないキャバクラのようなものだと思っていたのだが、実際のおっぱいパブは1対1で接客するもので、おっぱいに触るだけじゃなくキスとかしてもいいらしい。
下半身に触るのはNGだが、触ってもらうのはOKとのこと。
しかし性欲の最終的な解決はしてくれないので、結局悶々としてしまうらしい。
友人は「心が通じ合わないとおっぱいパブもつまらない」などという全くもって意味不明な世迷言をほざいていたので、何か新手の宗教にでもかぶれてしまったのか?なんて思ってしまった。
心なんて我が学派においてはその存在すら疑問視されているほどオールドファッションな概念だよ。
それをこともあろうにおっぱいパブで持ち出して通じるだの通じないだの、もうPSIの領域としか言いようがない。
『ムー』の世界。
その後も彼は「スナックに行くと落ち着く」などとジェネレーションを軽く2~3は超越した発言を繰り返していた。
どうでもいいが、「おっぱいパブ」という言葉はかなり気持ち悪い。
おっぱいは幼児語だし、パブは幼児語ではないものの響きが幼児っぽいから、幼児×幼児でエロという何とも居心地の悪い空気感を醸し出してしまう。
百歩譲って「パブおっぱい」ならば何とか許せるような気がするものの、それだとパブなおっぱいという意味になってしまう。
それでも、どちらかというよりおっぱいなパブよりはパブなおっぱいの方が楽しそうだなあ……という気持ちだ。
まあどちらにしてもおっぱいパブにはあまり興味がない。
本当だよ。
嘘じゃないよ。
おれ、おっぱいはおっぱい、パブはパブ、ノーパンはノーパン、しゃぶしゃぶはしゃぶしゃぶであるべきだと思っている人間だからね。
厳格ですよそこら辺は。
2016年11月1日火曜日
初恋の教室
語る度に内容が変わることでお馴染み、おれの「初恋」の話をしよう。
幼少期のおれは今のようないやらしい姿の大人とは無縁の、愛らしい子供だった。
ビスケットを叩いて2つに増やすという錬金術を知っていたお陰で街中の子供がおれを尊敬していた。
おれの周りには頭の悪い子供しかいなかったから、その程度のことでも魔術師を気取ることができた。
自慢じゃないが何でもできる子供だった。
野球をやらせれば4番以外はやらせてもらえなかったし、もちろんエースピッチャーだった。
おれが手を叩けばみんなが踊りだしたし、一度踊りだしてしまえば日が暮れるまで誰もそれをやめようとはしなかった。
あまりにも全てが自分の思い通りになりすぎて、この世なんてものは出来の悪い玩具のように感じていたように記憶する。
退屈していた。
その娘を見つけたのは、ちょうどそんな時期だった。
その頃のおれは慢性的にひどく物憂い気持ちに襲われていて、いつも教室の窓側で静かに授業を眺めていた。
ろくに人と話そうともしなくなったおれの周りには、いつの間にかひとりの取り巻きさえもいなくなっていた。
そうなってしまっても、もはやおれはビスケットを増やそうともしなかった。
しかし、そんなおれの耳にもついにあの娘の声が届いてきた。
それは微かな、小さな声だった。
耳を澄ましていなければとても聞こえないような声だ。
おれはその娘のことを知っていた。
彼女は喉の病気で、大きな声を出すことができないということも知っていた。
彼女は『雨蛙の物語』を朗読していた。
一生懸命なことはわかるのだが、教室の端にいるおれにはほとんど聞き取ることはできない。
小学生がそれほど長い間静けさに耐えられるわけもなく、教室は序々に騒がしくなっていき、ついに彼女の声は掻き消されてしまった。
おれは何だかとてもいけないことをしているような気持ちになっていた。
背筋に後ろ暗い何かが走るのを感じ、自分の身体に異変が起きていることを知った。
そして、おれは……おれは、おしっこがしたいのか?などと思った。
幼かったおれには尿意と区別をつけることすらできなかったわけなのだが、今ならわかる。
あれは初恋だったのだと。
そして、今のおれは恐れている。
小さな声の女の子を好きになったおれは、女の子なんてただかわいければよくて、ぺちゃくちゃ喋らない方が面倒がなくていいなんてことを根源的には求めているんじゃないか……なんてことを。
しかし、勿論それは勘違いに過ぎない。
きっと、あの騒がしい教室を抜け出してどこか静かな場所であの娘と心ゆくまでマチュピチュやエンジェルフォールの話をしたかっただけなのだ。
しかし、現実にはそんなことを話す機会は一度も訪れなかったどころか、この文章だってほとんどが嘘でしかない(おれが野球なんてするわけがない)。
しかし、おれの記憶の中にあの娘がいるということ、それは嘘じゃない。
彼女はふわふわとした髪の毛の女の子だった。
おれは確かに彼女を覚えている。
もう20年以上の時が流れてしまった今でも。
それでも、それがおれの初恋だったかというと、やっぱりどうにも自信が持てない。
やっぱりあれはただの尿意に過ぎなかったんじゃないか。
そんな気が、しないでもないんだよ。
幼少期のおれは今のようないやらしい姿の大人とは無縁の、愛らしい子供だった。
ビスケットを叩いて2つに増やすという錬金術を知っていたお陰で街中の子供がおれを尊敬していた。
おれの周りには頭の悪い子供しかいなかったから、その程度のことでも魔術師を気取ることができた。
自慢じゃないが何でもできる子供だった。
野球をやらせれば4番以外はやらせてもらえなかったし、もちろんエースピッチャーだった。
おれが手を叩けばみんなが踊りだしたし、一度踊りだしてしまえば日が暮れるまで誰もそれをやめようとはしなかった。
あまりにも全てが自分の思い通りになりすぎて、この世なんてものは出来の悪い玩具のように感じていたように記憶する。
退屈していた。
その娘を見つけたのは、ちょうどそんな時期だった。
その頃のおれは慢性的にひどく物憂い気持ちに襲われていて、いつも教室の窓側で静かに授業を眺めていた。
ろくに人と話そうともしなくなったおれの周りには、いつの間にかひとりの取り巻きさえもいなくなっていた。
そうなってしまっても、もはやおれはビスケットを増やそうともしなかった。
しかし、そんなおれの耳にもついにあの娘の声が届いてきた。
それは微かな、小さな声だった。
耳を澄ましていなければとても聞こえないような声だ。
おれはその娘のことを知っていた。
彼女は喉の病気で、大きな声を出すことができないということも知っていた。
彼女は『雨蛙の物語』を朗読していた。
一生懸命なことはわかるのだが、教室の端にいるおれにはほとんど聞き取ることはできない。
小学生がそれほど長い間静けさに耐えられるわけもなく、教室は序々に騒がしくなっていき、ついに彼女の声は掻き消されてしまった。
おれは何だかとてもいけないことをしているような気持ちになっていた。
背筋に後ろ暗い何かが走るのを感じ、自分の身体に異変が起きていることを知った。
そして、おれは……おれは、おしっこがしたいのか?などと思った。
幼かったおれには尿意と区別をつけることすらできなかったわけなのだが、今ならわかる。
あれは初恋だったのだと。
そして、今のおれは恐れている。
小さな声の女の子を好きになったおれは、女の子なんてただかわいければよくて、ぺちゃくちゃ喋らない方が面倒がなくていいなんてことを根源的には求めているんじゃないか……なんてことを。
しかし、勿論それは勘違いに過ぎない。
きっと、あの騒がしい教室を抜け出してどこか静かな場所であの娘と心ゆくまでマチュピチュやエンジェルフォールの話をしたかっただけなのだ。
しかし、現実にはそんなことを話す機会は一度も訪れなかったどころか、この文章だってほとんどが嘘でしかない(おれが野球なんてするわけがない)。
しかし、おれの記憶の中にあの娘がいるということ、それは嘘じゃない。
彼女はふわふわとした髪の毛の女の子だった。
おれは確かに彼女を覚えている。
もう20年以上の時が流れてしまった今でも。
それでも、それがおれの初恋だったかというと、やっぱりどうにも自信が持てない。
やっぱりあれはただの尿意に過ぎなかったんじゃないか。
そんな気が、しないでもないんだよ。
2016年10月30日日曜日
いつもの眼科
10月が来て、思いきりおれの両頬をぶちのめしながら、残りの2日がなぜだか長い。
早く行ってしまえばいい。
目を瞑って傷を作りながら過ごすつもりだった2月は、きちんと地に足を着けて立っていられた。
今日も海が見えている。
ぼんやりとした稜線。
いつもの眼科はいつものように混雑していた。
ここの眼科にはべらぼうに早口の医師がいる。
さくさくとビスケットを割るように検診していくのがおもしろい。
おれの眼球は気球のような絵を見させられ、しゅっと風を吹きつけられ、不格好な形の検査用の眼鏡(レンズをかちゃかちゃと入れ替えられる)を通して少し向こうの記号を判別させられる。
問診票へ書き込む自分の氏名と年齢に戸惑いながら、何年もこうして眼科へ来ている。
待合室で、隣に、何歳くらいだろう、小さな女の子がたどたどしく絵本のかな文字を読み上げている。
母親の目から溢れ出てる優しさに、よくまあ窒息しないことだ。
光に溶けるようにか細い髪の毛。
サンタ、クロースの、りぼ、ん。
オーロラ、い、ろの。
(オーロラいろは何いろ?)
(それはね、ほら、こんな風に色々に光っている色だよ)
(これ?)
(この空の色の全部でオーロラ色っていうんだよ)
(ふうん)
眼科に窓はなく、大きなモニタには動物たちのドキュメンタリーが流されている。
肉食獣が獲物を捕らえる瞬間の、スーパースローモーションの映像。
チーターに狙われた鹿のような動物は、逃げて逃げて、足がもつれたのか弾むように転倒し、それでもまだ逃げて、そこから2歩目でもう一度転んで、喉元へ噛みつかれた。
早く行ってしまえばいい。
目を瞑って傷を作りながら過ごすつもりだった2月は、きちんと地に足を着けて立っていられた。
今日も海が見えている。
ぼんやりとした稜線。
いつもの眼科はいつものように混雑していた。
ここの眼科にはべらぼうに早口の医師がいる。
さくさくとビスケットを割るように検診していくのがおもしろい。
おれの眼球は気球のような絵を見させられ、しゅっと風を吹きつけられ、不格好な形の検査用の眼鏡(レンズをかちゃかちゃと入れ替えられる)を通して少し向こうの記号を判別させられる。
問診票へ書き込む自分の氏名と年齢に戸惑いながら、何年もこうして眼科へ来ている。
待合室で、隣に、何歳くらいだろう、小さな女の子がたどたどしく絵本のかな文字を読み上げている。
母親の目から溢れ出てる優しさに、よくまあ窒息しないことだ。
光に溶けるようにか細い髪の毛。
サンタ、クロースの、りぼ、ん。
オーロラ、い、ろの。
(オーロラいろは何いろ?)
(それはね、ほら、こんな風に色々に光っている色だよ)
(これ?)
(この空の色の全部でオーロラ色っていうんだよ)
(ふうん)
眼科に窓はなく、大きなモニタには動物たちのドキュメンタリーが流されている。
肉食獣が獲物を捕らえる瞬間の、スーパースローモーションの映像。
チーターに狙われた鹿のような動物は、逃げて逃げて、足がもつれたのか弾むように転倒し、それでもまだ逃げて、そこから2歩目でもう一度転んで、喉元へ噛みつかれた。
2016年10月3日月曜日
そんなに喋らなくたって
聞いてる方は勿論、話してる方もうんざりしてるんだけど、かといって他に話すこともないので、お互いにうんざりしながらもついつい賞味期限の切れた話題をだらだらと喋ってしまうということがよくある。
かく言うおれもよくやってしまう。
そんな時、本当はどうするべきなのかということくらいはおれにもわかってて、それは無駄な抵抗は一切あきらめてしまって黙り込むということなのだが、わかっていても実践に移すことはなかなか難しいものだ。
黙り込んだ後になかなか次の話題が提供されないでいると何となく居心地の悪さを感じてしまって、結局はまた前の話をループさせてしまう。
昔、ある人と喋っていて、やっぱり同じように何となく会話が停滞してしまったことがしばしばあった。
そんな時にその人がいつも言ってたことだけど、会話が途中で途切れてしまうことをどこかの国では「天使が通る」と言うらしい。
天使が間を通ってるから喋れなくなってしまうのだとか何とか、そんな説明をしてた。
そんな話を聞くと沈黙も何となく心地良く、またどちらともなく話が始められるまでの時間をのんびり過ごすことができた。
たとえ今日話しそびれたことがあっても明日また話せばいいし、明日には話すことを忘れてしまったとしてもそのうちまたいつか思い出すだろうという感じだった。
それはその人の持っている雰囲気によるところが大きくて、おれもああいう喋りができるようになれればいいなあと思っていたけど、よく考えてみればおれは天使がどうこう言うようなキャラではないし、ああいう空気は持って生まれたものだから真似をしても仕方ない。
そんなわけで、やはりおれは「気まずい沈黙に耐えていくか」「くだらない話を空転させていくか」という2択を選ばざるを得ないわけで、そして大抵は後者の誘惑に屈してしまう。
かく言うおれもよくやってしまう。
そんな時、本当はどうするべきなのかということくらいはおれにもわかってて、それは無駄な抵抗は一切あきらめてしまって黙り込むということなのだが、わかっていても実践に移すことはなかなか難しいものだ。
黙り込んだ後になかなか次の話題が提供されないでいると何となく居心地の悪さを感じてしまって、結局はまた前の話をループさせてしまう。
昔、ある人と喋っていて、やっぱり同じように何となく会話が停滞してしまったことがしばしばあった。
そんな時にその人がいつも言ってたことだけど、会話が途中で途切れてしまうことをどこかの国では「天使が通る」と言うらしい。
天使が間を通ってるから喋れなくなってしまうのだとか何とか、そんな説明をしてた。
そんな話を聞くと沈黙も何となく心地良く、またどちらともなく話が始められるまでの時間をのんびり過ごすことができた。
たとえ今日話しそびれたことがあっても明日また話せばいいし、明日には話すことを忘れてしまったとしてもそのうちまたいつか思い出すだろうという感じだった。
それはその人の持っている雰囲気によるところが大きくて、おれもああいう喋りができるようになれればいいなあと思っていたけど、よく考えてみればおれは天使がどうこう言うようなキャラではないし、ああいう空気は持って生まれたものだから真似をしても仕方ない。
そんなわけで、やはりおれは「気まずい沈黙に耐えていくか」「くだらない話を空転させていくか」という2択を選ばざるを得ないわけで、そして大抵は後者の誘惑に屈してしまう。
2016年10月1日土曜日
おい磯野、野球しようぜ
おれはあまり性格の良い子供ではなかったから、小学校の卒業文集で「将来の夢はプロ野球選手です」などと宣言してしまうような級友たちのことを、腹の底では馬鹿にしていた。
こんな田舎の少年野球チームのレギュラーにさえなれないのに、どうしてプロ野球選手になりたいなんて言うことができるのか、不思議で仕方なかった。
歳をとってあの頃を振り返ってみれば、本当に馬鹿だったのは誰なのかがよくわかる。
おれはその時、自分の夢を隠した。
何を言ったのかも覚えてないが、とにかく本当になりたいものは言わなかった。
本当の夢を口にしたところで、誰にも理解してもらえやしないと思っていたのかもしれない。
それはもしかするとある面では事実だったかもしれないが、仮にそうだとしても、やはり間違っていたのはおれの方だった。
嘘つきの才能がないのに自分を偽ってばかりいると、やがて演じていたはずの自分が本性にすり替わってしまう。
というよりも、演じる自分以外の自分なんて、元からどこにも存在しないのだ。
嘘のつもりで話した言葉は、例外なく真実になる。
だからおれは、他人から見てそれがどんなに馬鹿馬鹿しく滑稽だったとしても、やはり堂々とプロ野球選手になりたいと言うべきだった。
いや、別にプロ野球選手になりたかったわけではないんだけど。
こんな田舎の少年野球チームのレギュラーにさえなれないのに、どうしてプロ野球選手になりたいなんて言うことができるのか、不思議で仕方なかった。
歳をとってあの頃を振り返ってみれば、本当に馬鹿だったのは誰なのかがよくわかる。
おれはその時、自分の夢を隠した。
何を言ったのかも覚えてないが、とにかく本当になりたいものは言わなかった。
本当の夢を口にしたところで、誰にも理解してもらえやしないと思っていたのかもしれない。
それはもしかするとある面では事実だったかもしれないが、仮にそうだとしても、やはり間違っていたのはおれの方だった。
嘘つきの才能がないのに自分を偽ってばかりいると、やがて演じていたはずの自分が本性にすり替わってしまう。
というよりも、演じる自分以外の自分なんて、元からどこにも存在しないのだ。
嘘のつもりで話した言葉は、例外なく真実になる。
だからおれは、他人から見てそれがどんなに馬鹿馬鹿しく滑稽だったとしても、やはり堂々とプロ野球選手になりたいと言うべきだった。
いや、別にプロ野球選手になりたかったわけではないんだけど。
2016年9月28日水曜日
濡れてしまった洗濯物は放っておこう 手遅れだから
季節はどれも気まぐれなので、少し近付いては溜め息を落として見えなくなってしまう。
噴水の見えるベンチへ腰かけてみれば、滑稽な銅像の上を滑っていく水たちの滑らかな様。
おれは本当はもっと眠っていたい。
この間、親戚が出産したというので見舞いに行った。
ちょうど2週間前に会ったばかりだったので、新生児室に息をしている生き物が、まさか。
途方もない心持ち。
おれたちもかつて生まれたものだった。
いつのまにか死にゆくものになっている。
ちょうど誕生日を迎えたところで感傷的になり、父へ「あと200年生きてほしい」と懇願したところの俺は、生きて2日目という生き物たちとガラス越しに向き合って(あちらは目がまだ見えていないだろう)、まさか。
やはり途方に暮れる。
本当に途方に暮れてしまった。
父も母もああして生まれてきて、おれを生んだ。
それでいて、先に死んでしまう。
それにしてもおれの肌は、この2日目の人たちと比べれば何とも中途半端な古び方をして、父や母のようにまだ体に馴染んでいるという感じもしない。
愛はいつもあるべきところにあるようにあるのに、おれには時々わからない。
確かめようとして、確かめ方がわかるはずもない。
おれはそれがあるべきところにあるようにあるのだということを知っている。
知っていながら、わからない。
だから自分が悪いのだ、そう思うことでしか逃げられない。
それは正しいやり方ではないにしろ、だからといってもっと良い策があるとも思えない。
おれは怖い。
あるべきところにあるようにあるはずの愛が、それがおれのものではないと思うのが怖い。
おれはおれの思っているようにだけ物事を思いたい。
それは恥ずべき幼さなので、箱へしまって家へ置いているけれど、誰でも皆、家へは帰らなければならない。
噴水の見えるベンチへ腰かけてみれば、滑稽な銅像の上を滑っていく水たちの滑らかな様。
おれは本当はもっと眠っていたい。
この間、親戚が出産したというので見舞いに行った。
ちょうど2週間前に会ったばかりだったので、新生児室に息をしている生き物が、まさか。
途方もない心持ち。
おれたちもかつて生まれたものだった。
いつのまにか死にゆくものになっている。
ちょうど誕生日を迎えたところで感傷的になり、父へ「あと200年生きてほしい」と懇願したところの俺は、生きて2日目という生き物たちとガラス越しに向き合って(あちらは目がまだ見えていないだろう)、まさか。
やはり途方に暮れる。
本当に途方に暮れてしまった。
父も母もああして生まれてきて、おれを生んだ。
それでいて、先に死んでしまう。
それにしてもおれの肌は、この2日目の人たちと比べれば何とも中途半端な古び方をして、父や母のようにまだ体に馴染んでいるという感じもしない。
愛はいつもあるべきところにあるようにあるのに、おれには時々わからない。
確かめようとして、確かめ方がわかるはずもない。
おれはそれがあるべきところにあるようにあるのだということを知っている。
知っていながら、わからない。
だから自分が悪いのだ、そう思うことでしか逃げられない。
それは正しいやり方ではないにしろ、だからといってもっと良い策があるとも思えない。
おれは怖い。
あるべきところにあるようにあるはずの愛が、それがおれのものではないと思うのが怖い。
おれはおれの思っているようにだけ物事を思いたい。
それは恥ずべき幼さなので、箱へしまって家へ置いているけれど、誰でも皆、家へは帰らなければならない。
2016年9月21日水曜日
宇多田ヒカル 最終章
宇多田ヒカルについてずっと書きあぐねたまま、どれだけの時が経ってしまったのだろう。
少なくとも年単位でおれの文章は彼女に触れることを躊躇い続けている。
いや、厳密には何度か軽く触れたことはあったが、いざ深層的なところへ突っ込んでいこうとすると突然文章を書くことができなくなってしまうのだった。
それほど難しいテーマだとは思っていない。
おれは宇多田ヒカルのことはよくわかっている。
わかりすぎている。
にも関わらずおれが彼女について書くことができないのは、書いてしまえば、書いてブログに載せてしてしまえば、きっと彼女はその文章を見つけてしまうだろうことを、子供がサンタクロースを信じるよりも強く信じているからだ。
……などと言ってしまえば、これを読んでいるあなたは「こいついかれてるな」とブラウザを閉じてしまうかもしれない。
おれはそれでもいいと思っている。
なぜなら、このくらいのことでは宇多田ヒカルはブラウザを閉じないということもおれはわかっているからだ。
この宇多田ヒカルに対するおれの盲目的な信頼はどこからくるのだろう。
自分でもよくわからないが、それはもしかすると彼女の発する「同級生」感によるものなのかもしれない。
そう、「同級生」という関係が一番適切だ。
おれと彼女は友人ではないし、ましてや恋人などではあり得ない。
同じクラスにいて、ちゃんと話せば仲良くなれるんだろうなんてことをお互いに(ここが重要だ)思いながら、ろくに関わらないまま卒業してしまうという「距離」。
いつの日かdistanceも抱きしめられるようになれるよ "FINAL DISTANCE"
「会いたくて会いたくて震える女王」が西野カナなら、「会いたくて会えないdistanceを抱きしめ女王」が宇多田ヒカルであることは明らかだ。
「このdistanceを抱きしめる」という1行に潜む優等生的病理の退屈さはおれたち同級生にとっては確かに親しみ深いものだが、宇多田ヒカルの同級生性はむしろそこにわずかにメンヘラの香りを漂わせているところにある。
勿論、おれたちが思春期を過ごしたあの時代は、メンタルのヘルスが何かしらの機能不全に陥っていることが何かを語るための最低条件とされていた時代だったから、メンへラ的であること自体は問題とするには当たらないし、それは宇多田ヒカルに限ったことじゃない。
椎名林檎、Cocco、あるいは浜崎あゆみでもいい。
当時人気を博した女性アーティストたちに比べれば、むしろ彼女のメンヘラ性は薄すぎるほどだ。
この「薄さ」に、おれたちの同級生性を紐解く鍵がある。
彼女のメンヘラ性は「薄い」わけではなく「薄められている」ということ。
そこに気が付かないのなら、もはやおれに彼女の同級生を名乗る資格はない。
退屈な優等生という彼女のキャラクターは、おれたちの多くがそうであるように、心の闇を意思によって制御しようという方向の努力を重ねてしまう。
そんな風にきつく縛り上げた自我からほんのわずかに漏れ出した闇。
それが宇多田ヒカルが身に纏うメンヘラ的な香りの正体だ。
決して声高に主張されることのない苦しみは、それだけにかえって真実味を増していく。
こういう言い方は我ながらちょっとどうかと思うが、おれは宇多田ヒカルを見る度に「あんた、幸せにはなれないかもしれない」なんてことを思ってしまう。
いっそブレーキの効かない領域までアクセルを踏み込んでしまえば、あるいはもっと楽に生きられるのかもしれない。
しかし聡明なる彼女が選んだのは、もっと地道で、確かな解決法だった。
"光"のMVを思い出してみてほしい。
あのMVには彼女の辿り着いた結論が誰にでもわかる形で表現されている。
そこでは宇多田ヒカルは皿洗いをしながら歌を歌っている。
「皿洗い」というのがポイントだ。
別にこれは彼女の巨乳を強調するためのあざとい演出ではない。
結局のところ心の闇などというあやふやなものは、皿洗いという日々繰り返される確かな「生活」によってやり過ごすしかない。
彼女はそう我々に語りかけている。
しかし問題があるとすれば、彼女自身が全くそれを信じていないように見えることだ。
大体、世紀末育ちのおれたちが「生活」なんて退屈なものを受け入れて生きていくことなんてできるわけがなかったのだ。
日常なんてクソ喰らえ。
生活するくらいなら死んだほうがまし、それがおれたち暗黒世代のポリシーだ。
とはいえ、おれたちだって何も生きることを否定したいわけじゃない。
しかしイメージしてほしい。
これから書かれる全ての小説が『プレーンソング』みたいになってしまったら?
あるいは全ての漫画が『よつばと!』になってしまったら?
おれたちは明日からどうやって生きていけばいいというのか。
誤解しないでもらいたいのは、おれはこれらの作品の素晴らしさをよくわかっているつもりだ。
しかしそれは、あくまで数多のファンタジーのうちのひとつだからこそだ。
それを「ただひとつ」の物語だなんてことを言われたら、おれたち暗黒世代はすぐに窒息死してしまうだろう。
恐ろしいことに、現実だとか生活だとかはおれたちにそういったことを平然と押し付けて、まるで悪びれる様子もない。
勿論、聡明な宇多田ヒカルはその恐怖を克服する術もを見つけ出していた。
心の電波 届いてますか? 罪人たちの Heart Station "HEART STATION"
この歌詞の溢れるような中二っぷりはどうだ。
宇多田ヒカルの同級生性は、おれたちが海辺のエロ本を木の枝でめくっている時にクラスのあの娘は近所の大学生と付き合っていたりするようなところにあるわけで、そんな彼女が中二への回帰志向を見せたのは非常に興味深い事実だ。
しかしながら、おれたちは中二のまま生きていくことはできないという断念はこの曲の中にさえはっきり示されていて、「今も僕らをつないでる 秘密のヘルツ」という歌詞がある。
ピュアな心の持ち主にだけ見えるものだ。
それならdistanceに戻って同級生してた方がいいのかもしれない。
無理はしない主義でも 君とならしてみてもいいよ “FINAL DISTANCE”
この歌はおれの解釈によれば「無理はしない主義でも君となら(セックス)してみてもいいよ」というメッセージに他ならず、結局のところ、物語に憑かれた虚しさと生きることの面倒くささを止揚するのは性しかないという事実に、宇多田ヒカルはごく初期に到達していることがよくわかる。
無限に誤り続けるコミュニケーションの砂浜で一瞬の波を待ち続けること、セックス、おれたちが海辺のエロ本を木の枝でめくっている時にクラスのあの娘は近所の大学生と付き合っているという無力感、それらの光景はおれと宇多田ヒカルとのdistanceの間に点在しているのだから、それらを辿っていけばいずれおれは宇多田ヒカルと「やっと会えたね」ということになるのだろう。
しかしおれが決してそうしないのは、適切なdistanceを保つことに同級生としての節度を見出しているからだし、実際にはおれのクラスに宇多田ヒカル的な人間はいなかったのだけど、クラスの誰よりもやはり宇多田ヒカルはおれの同級生だった。
……などと言ってしまうと、これを読んでいるあなたはまた「ああ、こいつはもう手遅れだ」とブラウザを閉じてしまうかもしれないが、おれはまあ、それでもいいと思ってる。
少なくとも年単位でおれの文章は彼女に触れることを躊躇い続けている。
いや、厳密には何度か軽く触れたことはあったが、いざ深層的なところへ突っ込んでいこうとすると突然文章を書くことができなくなってしまうのだった。
それほど難しいテーマだとは思っていない。
おれは宇多田ヒカルのことはよくわかっている。
わかりすぎている。
にも関わらずおれが彼女について書くことができないのは、書いてしまえば、書いてブログに載せてしてしまえば、きっと彼女はその文章を見つけてしまうだろうことを、子供がサンタクロースを信じるよりも強く信じているからだ。
……などと言ってしまえば、これを読んでいるあなたは「こいついかれてるな」とブラウザを閉じてしまうかもしれない。
おれはそれでもいいと思っている。
なぜなら、このくらいのことでは宇多田ヒカルはブラウザを閉じないということもおれはわかっているからだ。
この宇多田ヒカルに対するおれの盲目的な信頼はどこからくるのだろう。
自分でもよくわからないが、それはもしかすると彼女の発する「同級生」感によるものなのかもしれない。
そう、「同級生」という関係が一番適切だ。
おれと彼女は友人ではないし、ましてや恋人などではあり得ない。
同じクラスにいて、ちゃんと話せば仲良くなれるんだろうなんてことをお互いに(ここが重要だ)思いながら、ろくに関わらないまま卒業してしまうという「距離」。
いつの日かdistanceも抱きしめられるようになれるよ "FINAL DISTANCE"
「会いたくて会いたくて震える女王」が西野カナなら、「会いたくて会えないdistanceを抱きしめ女王」が宇多田ヒカルであることは明らかだ。
「このdistanceを抱きしめる」という1行に潜む優等生的病理の退屈さはおれたち同級生にとっては確かに親しみ深いものだが、宇多田ヒカルの同級生性はむしろそこにわずかにメンヘラの香りを漂わせているところにある。
勿論、おれたちが思春期を過ごしたあの時代は、メンタルのヘルスが何かしらの機能不全に陥っていることが何かを語るための最低条件とされていた時代だったから、メンへラ的であること自体は問題とするには当たらないし、それは宇多田ヒカルに限ったことじゃない。
椎名林檎、Cocco、あるいは浜崎あゆみでもいい。
当時人気を博した女性アーティストたちに比べれば、むしろ彼女のメンヘラ性は薄すぎるほどだ。
この「薄さ」に、おれたちの同級生性を紐解く鍵がある。
彼女のメンヘラ性は「薄い」わけではなく「薄められている」ということ。
そこに気が付かないのなら、もはやおれに彼女の同級生を名乗る資格はない。
退屈な優等生という彼女のキャラクターは、おれたちの多くがそうであるように、心の闇を意思によって制御しようという方向の努力を重ねてしまう。
そんな風にきつく縛り上げた自我からほんのわずかに漏れ出した闇。
それが宇多田ヒカルが身に纏うメンヘラ的な香りの正体だ。
決して声高に主張されることのない苦しみは、それだけにかえって真実味を増していく。
こういう言い方は我ながらちょっとどうかと思うが、おれは宇多田ヒカルを見る度に「あんた、幸せにはなれないかもしれない」なんてことを思ってしまう。
いっそブレーキの効かない領域までアクセルを踏み込んでしまえば、あるいはもっと楽に生きられるのかもしれない。
しかし聡明なる彼女が選んだのは、もっと地道で、確かな解決法だった。
"光"のMVを思い出してみてほしい。
あのMVには彼女の辿り着いた結論が誰にでもわかる形で表現されている。
そこでは宇多田ヒカルは皿洗いをしながら歌を歌っている。
「皿洗い」というのがポイントだ。
別にこれは彼女の巨乳を強調するためのあざとい演出ではない。
結局のところ心の闇などというあやふやなものは、皿洗いという日々繰り返される確かな「生活」によってやり過ごすしかない。
彼女はそう我々に語りかけている。
しかし問題があるとすれば、彼女自身が全くそれを信じていないように見えることだ。
大体、世紀末育ちのおれたちが「生活」なんて退屈なものを受け入れて生きていくことなんてできるわけがなかったのだ。
日常なんてクソ喰らえ。
生活するくらいなら死んだほうがまし、それがおれたち暗黒世代のポリシーだ。
とはいえ、おれたちだって何も生きることを否定したいわけじゃない。
しかしイメージしてほしい。
これから書かれる全ての小説が『プレーンソング』みたいになってしまったら?
あるいは全ての漫画が『よつばと!』になってしまったら?
おれたちは明日からどうやって生きていけばいいというのか。
誤解しないでもらいたいのは、おれはこれらの作品の素晴らしさをよくわかっているつもりだ。
しかしそれは、あくまで数多のファンタジーのうちのひとつだからこそだ。
それを「ただひとつ」の物語だなんてことを言われたら、おれたち暗黒世代はすぐに窒息死してしまうだろう。
恐ろしいことに、現実だとか生活だとかはおれたちにそういったことを平然と押し付けて、まるで悪びれる様子もない。
勿論、聡明な宇多田ヒカルはその恐怖を克服する術もを見つけ出していた。
心の電波 届いてますか? 罪人たちの Heart Station "HEART STATION"
この歌詞の溢れるような中二っぷりはどうだ。
宇多田ヒカルの同級生性は、おれたちが海辺のエロ本を木の枝でめくっている時にクラスのあの娘は近所の大学生と付き合っていたりするようなところにあるわけで、そんな彼女が中二への回帰志向を見せたのは非常に興味深い事実だ。
しかしながら、おれたちは中二のまま生きていくことはできないという断念はこの曲の中にさえはっきり示されていて、「今も僕らをつないでる 秘密のヘルツ」という歌詞がある。
ピュアな心の持ち主にだけ見えるものだ。
それならdistanceに戻って同級生してた方がいいのかもしれない。
無理はしない主義でも 君とならしてみてもいいよ “FINAL DISTANCE”
この歌はおれの解釈によれば「無理はしない主義でも君となら(セックス)してみてもいいよ」というメッセージに他ならず、結局のところ、物語に憑かれた虚しさと生きることの面倒くささを止揚するのは性しかないという事実に、宇多田ヒカルはごく初期に到達していることがよくわかる。
無限に誤り続けるコミュニケーションの砂浜で一瞬の波を待ち続けること、セックス、おれたちが海辺のエロ本を木の枝でめくっている時にクラスのあの娘は近所の大学生と付き合っているという無力感、それらの光景はおれと宇多田ヒカルとのdistanceの間に点在しているのだから、それらを辿っていけばいずれおれは宇多田ヒカルと「やっと会えたね」ということになるのだろう。
しかしおれが決してそうしないのは、適切なdistanceを保つことに同級生としての節度を見出しているからだし、実際にはおれのクラスに宇多田ヒカル的な人間はいなかったのだけど、クラスの誰よりもやはり宇多田ヒカルはおれの同級生だった。
……などと言ってしまうと、これを読んでいるあなたはまた「ああ、こいつはもう手遅れだ」とブラウザを閉じてしまうかもしれないが、おれはまあ、それでもいいと思ってる。
2016年9月18日日曜日
みんな嘘つきだ
「ポジティブ」という単語を前にすると、つい身構えてしまう。
やはりおれはその言葉にどうしようもなく暗いものを嗅ぎ取ってしまって、そこに自らが囚われてしまうことを恐れている……ような気がする。
「私はポジティブ人間ですよ!」という言葉からは、私は世界を美しく楽しいものだと規定しますよ!という悲壮な覚悟が響いてくる(本当は世界は美しくも楽しくもないものだが)。
ああ、この人はこの世界を信じてはいないんだな、そんな風におれは感じてしまう。
勿論それはポジティブだけの問題じゃない。
話をひっくり返してしまえば「私はネガティブ人間ですよ!」という言葉には、本当はこの世界は私が思ってるほど悪くはないはずだ!という無根拠な甘えが漂っているとさえ思う。
ポジティブにせよネガティブにせよ、「あえてこう見る」「あえてこう感じる」なメタ野郎ばかりで、曇りなき眼(まなこ)でものを見ようというアシタカシンキングが欠けている。
そんな絶望の底にあるのは、上半身で例えるならガラス越しのキス、下半身で例えるならゴム越しのセックスみたいなもので、つまるところ、俺たちが本当に誰かと抱き合うことなんて永遠に不可能なんじゃないかという諦念でしかないのだ。
しかしそんなおれの考えも、結局は自分の頭蓋骨から1歩も外に出たことのないものの空論でしかない。
おれたちの認識の向こう側に解釈を超えた真の世界があるなんてことは古代ギリシャの段階でとっくに時代遅れな代物だっただろうし、佐木飛朗斗も真っ青な「スピードの向こう側」な幻想でしかないのかもしれない。
おれたちが抱こうとする「誰か」なんて常に幻なのだと言われてしまえば、さすがのおれも渋々ながら頷かざるを得ない。
あばたもえくぼの例えもあるさ
認識だけが現実だ
2016年9月15日木曜日
西荻窪にて
予報通りの雨が降って、ヘッドフォンの向こう側でジョニー・キャッシュが歌った。
言いたいことの半分も言えず、そもそもこの乱れきった気持ちを言葉に変える術さえ持たず、投げやりな気持ちで過ごしている。
誰かのことを本当に考えるということはやはりそれは自分自身を考えないのであって、このささやかな田舎暮らしを続けることもあのせわしない街の暮らしに飛び出すことも正しくはない気になり、抱えたものの多さに些か驚く。
今日はやまだないとの『西荻夫婦』を読み返した。
インディーズからの出版ということで普段とは少し趣向が異なっていて、気の抜けた感じのエッセイ風の展開がおもしろい。
やまだないとは南Q太や魚喃キリコと比べてロマンチックで、その感じが嫌で読まなかった時期もあったが、久しぶりに読んでみると悪くなかった。
『西荻夫婦』は文字通り西荻窪に住む夫婦の話で、西荻窪とか高円寺と言われると、それらの地名が持つ記号的な意味合いよりも先におれにとってはとてもローカルで身近な光景が思い浮かぶ。
駅前の怪しいロックバーで飲んで、ツェッペリンの流れる店内でリッチーと呼ばれるバーテンと自称ジミーとかいう常連客に挟まれながらストーンズの話を延々聞かされたりした思い出。
青梅街道から三鷹や吉祥寺に抜ける時の雰囲気もとても好きだった。
『西荻夫婦』の後半に、「わたし」が眠りながら「終わりの感覚」に襲われて涙を流すシーンがある。
それはある特定の架空の場所についての想起であり、ある特定の感情に対してのシンパシーだ。
とても痛切で美しいシーンだ。
おれも時々そんなことを思う時があって、それは何かが終わってしまった後の乾いた時間の中で深みも色彩も失った景色が延々と続いていく感じだ。
何よりも悲しいのは日常生活の中で「これがあの場面なのかもしれない」と思うことで、そんな時にはただ目を閉じて、景色が自分の前を通り過ぎていくのをじっと待つことしかできない。
言いたいことの半分も言えず、そもそもこの乱れきった気持ちを言葉に変える術さえ持たず、投げやりな気持ちで過ごしている。
誰かのことを本当に考えるということはやはりそれは自分自身を考えないのであって、このささやかな田舎暮らしを続けることもあのせわしない街の暮らしに飛び出すことも正しくはない気になり、抱えたものの多さに些か驚く。
今日はやまだないとの『西荻夫婦』を読み返した。
インディーズからの出版ということで普段とは少し趣向が異なっていて、気の抜けた感じのエッセイ風の展開がおもしろい。
やまだないとは南Q太や魚喃キリコと比べてロマンチックで、その感じが嫌で読まなかった時期もあったが、久しぶりに読んでみると悪くなかった。
『西荻夫婦』は文字通り西荻窪に住む夫婦の話で、西荻窪とか高円寺と言われると、それらの地名が持つ記号的な意味合いよりも先におれにとってはとてもローカルで身近な光景が思い浮かぶ。
駅前の怪しいロックバーで飲んで、ツェッペリンの流れる店内でリッチーと呼ばれるバーテンと自称ジミーとかいう常連客に挟まれながらストーンズの話を延々聞かされたりした思い出。
青梅街道から三鷹や吉祥寺に抜ける時の雰囲気もとても好きだった。
『西荻夫婦』の後半に、「わたし」が眠りながら「終わりの感覚」に襲われて涙を流すシーンがある。
それはある特定の架空の場所についての想起であり、ある特定の感情に対してのシンパシーだ。
とても痛切で美しいシーンだ。
おれも時々そんなことを思う時があって、それは何かが終わってしまった後の乾いた時間の中で深みも色彩も失った景色が延々と続いていく感じだ。
何よりも悲しいのは日常生活の中で「これがあの場面なのかもしれない」と思うことで、そんな時にはただ目を閉じて、景色が自分の前を通り過ぎていくのをじっと待つことしかできない。
2016年8月16日火曜日
ただ「ひとりでいい」と言ってほしかった
いじめ。
学級崩壊。
人類が21世紀を迎えてもう15年以上も経つというのに、教育現場ではおれの子供時代と何ら変わることのない問題が繰り返され続ける。
この辺りの問題は、単に教育問題というよりも人類全体がずっと抱えてきた病気みたいなものだから、さすがに一発で解決する方策を見つけるのは難しいだろう。
ただ、少なくとも日本の学校教育においては、これらの諸問題を軽減する方法はなくはないはずだ。
それは子供たちに、ひとりぼっちでいることを許してあげることだ。
子供の頃のおれにとって学校を嫌いになる理由なんて無数にあったけど、その中でも最も大きなもののひとつは、学校の中では孤独が禁止されているということだった。
構造として、制度として、学校はそういう風に作られている。
学校の中でひとりぼっちでいると本当に惨めで淋しい思いをすることになる。
大人になってからわかったことだが、その時感じた感情はおれの本当の気持ちではなかった。
ひとりがつらいという気持ちは、学校というシステムがおれにそう感じさせていることでしかなかったのだ。
ひとりで本を読む。
ひとりで音楽を聴く。
ひとりで街を歩く。
実際にやってみると、全然淋しいことなんかじゃない。
全然惨めなことなんかじゃない。
学校の中にいると、そういった当然のこともわからなくなってしまう。
ひとりでいることがまるでとんでもない罪であるかのように感じられるようになってしまう。
子供はみんなそれを恐れる。
嫌いな人間と友達のふりをしたりしなければいけなくなる。
嫌いな人間と友達でいるために共通の敵をでっち上げなければならなくなったりもする。
そういった処世術は大人の専売特許のような気がするが、実は子供の方がそれをより強く要求されていると思う。
まあ大人にだって同じようなことはいくらでもあるが、それでも大人は他人と他人のまま付き合うことが許されているのだから楽なものだ。
子供時代には他人という関係性が乏しすぎる。
これも大人になってから学んだことだった。
友達を作らなくてもいい、ひとりでもいい。
そんな言葉があるだけで救われる子供がきっといる。
それは多分、少ない数ではないと思う。
何かの拍子で、休み時間をずっと水飲み場で過ごしているような中学生がこのブログを見つけてしまうかもしれないからとりあえず言っておこうと思う。
学校なんて本当に奇妙で特殊な空間でしかないよ。
おかしな論理が平然とまかり通っている。
教師なんてみんな馬鹿だと思って構わない。
勿論このおれのことも、救い難い馬鹿野郎だと思ってくれて構わない。
10年くらい経つと、本当に馬鹿だった教師と、本当は馬鹿じゃなかった教師の区別がつくようになるはずだから。
果たしておれはどちらなのか?
この文章は信用してもいいものだろうか?
10年後の君には、きっとわかっているはずだ。
学級崩壊。
人類が21世紀を迎えてもう15年以上も経つというのに、教育現場ではおれの子供時代と何ら変わることのない問題が繰り返され続ける。
この辺りの問題は、単に教育問題というよりも人類全体がずっと抱えてきた病気みたいなものだから、さすがに一発で解決する方策を見つけるのは難しいだろう。
ただ、少なくとも日本の学校教育においては、これらの諸問題を軽減する方法はなくはないはずだ。
それは子供たちに、ひとりぼっちでいることを許してあげることだ。
子供の頃のおれにとって学校を嫌いになる理由なんて無数にあったけど、その中でも最も大きなもののひとつは、学校の中では孤独が禁止されているということだった。
構造として、制度として、学校はそういう風に作られている。
学校の中でひとりぼっちでいると本当に惨めで淋しい思いをすることになる。
大人になってからわかったことだが、その時感じた感情はおれの本当の気持ちではなかった。
ひとりがつらいという気持ちは、学校というシステムがおれにそう感じさせていることでしかなかったのだ。
ひとりで本を読む。
ひとりで音楽を聴く。
ひとりで街を歩く。
実際にやってみると、全然淋しいことなんかじゃない。
全然惨めなことなんかじゃない。
学校の中にいると、そういった当然のこともわからなくなってしまう。
ひとりでいることがまるでとんでもない罪であるかのように感じられるようになってしまう。
子供はみんなそれを恐れる。
嫌いな人間と友達のふりをしたりしなければいけなくなる。
嫌いな人間と友達でいるために共通の敵をでっち上げなければならなくなったりもする。
そういった処世術は大人の専売特許のような気がするが、実は子供の方がそれをより強く要求されていると思う。
まあ大人にだって同じようなことはいくらでもあるが、それでも大人は他人と他人のまま付き合うことが許されているのだから楽なものだ。
子供時代には他人という関係性が乏しすぎる。
これも大人になってから学んだことだった。
友達を作らなくてもいい、ひとりでもいい。
そんな言葉があるだけで救われる子供がきっといる。
それは多分、少ない数ではないと思う。
何かの拍子で、休み時間をずっと水飲み場で過ごしているような中学生がこのブログを見つけてしまうかもしれないからとりあえず言っておこうと思う。
学校なんて本当に奇妙で特殊な空間でしかないよ。
おかしな論理が平然とまかり通っている。
教師なんてみんな馬鹿だと思って構わない。
勿論このおれのことも、救い難い馬鹿野郎だと思ってくれて構わない。
10年くらい経つと、本当に馬鹿だった教師と、本当は馬鹿じゃなかった教師の区別がつくようになるはずだから。
果たしておれはどちらなのか?
この文章は信用してもいいものだろうか?
10年後の君には、きっとわかっているはずだ。
2016年7月31日日曜日
旅先での美しい出会い
旅行が好きだ。
だけどおれは基本的に旅先での思わぬ出会いを喜ぶような人間じゃない。
勿論全く喜ばないわけじゃないんだけど、最終的には煩わしいと感じてしまうことの方が多かったりする。
大して興味のない話にほうほうと相槌を打つのも面倒だし、話が盛り上がったら盛り上がったで今度は話を打ち切るタイミングに頭を悩ませることになる。
さらにこれはおれの経験則から言うが、そもそも見ず知らずの人間に積極的に声をかけてくるような人間には、現役時代にテンプルを打たれすぎたような方も少なくない。
昔、とある避暑地に旅行に出かけた時の話。
おれたちは「真の天皇家」を名乗る奇妙な男に絡まれ、小一時間ほど彼の偉大な念能力にまつわる素晴らしいお話を拝聴する事態に陥ってしまった。
彼の念能力は恐らく操作系に属するもので、対象の血族(9代先の子孫をも含む)をまるごと発狂させるという凶悪極まりない性能を持つのだという。
彼の話そのものも相当にやばく、きつかったのだが、何よりも辛かったのは、彼の傍らに立つ奥さんが彼の熱弁を本当に目を輝かせて聞くその姿だった。
彼女からはこちらの正気を否応なしに蝕むような陰惨たる気が放たれていて、おれは実際ちょっと頭がおかしくなりかけてしまった……。
極端な例を出してしまった気がするが、つまり旅先の出会いには危険がつきものなのだ。
そのことを考えれば、男子たるもの一歩敷居を跨いだならば、目を伏せ耳を噤み誰とも話すことなく歩くべきだ。
そんなことを口走ってしまうほどにアレなおれにも、本当に嬉しくなるような出会いというものはある。
ごくごく稀にだが。
不思議なことに、決して旅に出ることない人々との出会いにおいてそんな風に感じることが多い。
ある街や島、限定された空間から一歩も外に出ることなく暮らしながら、羨ましいほどの自由を感じさせる人たちがいる。
金沢の街に古くからある喫茶店の女店主も、そんな人間のひとりだった。
彼女は当時60歳を過ぎていたが、正直言って実年齢より10や20は若く見えた。
しかしおれは「お若いですね」などとは言えなかった。
彼女に「若い」なんて言うことはとても失礼なことであるように感じた。
若さ=善などという世間の価値観をそのままに受け入れるような人ではないんじゃないかと思えたから。
彼女は年中無休で営業している喫茶店(父親の形見らしい)を開けるために、金沢の街から離れることはできないと言っていた。
ひとつの土地に縛られる生き方なんておれはまっぴらごめんだと思っていたはずだった。
だけど金沢の街に幽閉されているはずの彼女の言葉は、おれの知るどんな人間よりも自由で、美しかった。
おれは彼女と交わした会話をまるごと憶えておきたい。
喫茶店に漂うコーヒーの匂い、窓辺から見た夕焼けのこと、そんなあれやこれやも全部含めて。
そしてそれらをこのブログに記してみよう、そう思ったのだが、いざこうして文章を書いてみると何ひとつ説得力のあることを書けそうな気がしない。
旅先で出会ったちょっとおかしな人の話は書くことができても、旅先での本当に大切な出会いについては、まるで言葉にすることができないのだ。
こんな書き方をいつまでも改められないのなら、日々の記録をつけたところで自分の生活を無限に損なうだけで終わってしまう。
受験戦争に敗北した負け犬が集まる頭の悪い高校で高等教育を受けたおれにだってそれくらいのことはわかる。
わかるんだよ、マジで……。
だけどおれは基本的に旅先での思わぬ出会いを喜ぶような人間じゃない。
勿論全く喜ばないわけじゃないんだけど、最終的には煩わしいと感じてしまうことの方が多かったりする。
大して興味のない話にほうほうと相槌を打つのも面倒だし、話が盛り上がったら盛り上がったで今度は話を打ち切るタイミングに頭を悩ませることになる。
さらにこれはおれの経験則から言うが、そもそも見ず知らずの人間に積極的に声をかけてくるような人間には、現役時代にテンプルを打たれすぎたような方も少なくない。
昔、とある避暑地に旅行に出かけた時の話。
おれたちは「真の天皇家」を名乗る奇妙な男に絡まれ、小一時間ほど彼の偉大な念能力にまつわる素晴らしいお話を拝聴する事態に陥ってしまった。
彼の念能力は恐らく操作系に属するもので、対象の血族(9代先の子孫をも含む)をまるごと発狂させるという凶悪極まりない性能を持つのだという。
彼の話そのものも相当にやばく、きつかったのだが、何よりも辛かったのは、彼の傍らに立つ奥さんが彼の熱弁を本当に目を輝かせて聞くその姿だった。
彼女からはこちらの正気を否応なしに蝕むような陰惨たる気が放たれていて、おれは実際ちょっと頭がおかしくなりかけてしまった……。
極端な例を出してしまった気がするが、つまり旅先の出会いには危険がつきものなのだ。
そのことを考えれば、男子たるもの一歩敷居を跨いだならば、目を伏せ耳を噤み誰とも話すことなく歩くべきだ。
そんなことを口走ってしまうほどにアレなおれにも、本当に嬉しくなるような出会いというものはある。
ごくごく稀にだが。
不思議なことに、決して旅に出ることない人々との出会いにおいてそんな風に感じることが多い。
ある街や島、限定された空間から一歩も外に出ることなく暮らしながら、羨ましいほどの自由を感じさせる人たちがいる。
金沢の街に古くからある喫茶店の女店主も、そんな人間のひとりだった。
彼女は当時60歳を過ぎていたが、正直言って実年齢より10や20は若く見えた。
しかしおれは「お若いですね」などとは言えなかった。
彼女に「若い」なんて言うことはとても失礼なことであるように感じた。
若さ=善などという世間の価値観をそのままに受け入れるような人ではないんじゃないかと思えたから。
彼女は年中無休で営業している喫茶店(父親の形見らしい)を開けるために、金沢の街から離れることはできないと言っていた。
ひとつの土地に縛られる生き方なんておれはまっぴらごめんだと思っていたはずだった。
だけど金沢の街に幽閉されているはずの彼女の言葉は、おれの知るどんな人間よりも自由で、美しかった。
おれは彼女と交わした会話をまるごと憶えておきたい。
喫茶店に漂うコーヒーの匂い、窓辺から見た夕焼けのこと、そんなあれやこれやも全部含めて。
そしてそれらをこのブログに記してみよう、そう思ったのだが、いざこうして文章を書いてみると何ひとつ説得力のあることを書けそうな気がしない。
旅先で出会ったちょっとおかしな人の話は書くことができても、旅先での本当に大切な出会いについては、まるで言葉にすることができないのだ。
こんな書き方をいつまでも改められないのなら、日々の記録をつけたところで自分の生活を無限に損なうだけで終わってしまう。
受験戦争に敗北した負け犬が集まる頭の悪い高校で高等教育を受けたおれにだってそれくらいのことはわかる。
わかるんだよ、マジで……。
2016年7月30日土曜日
R.I.P. Amy Winehouse
気が付けば7月23日を過ぎていた。
毎年この時期になると、あるアーティストのことを思い出す。
エイミー・ワインハウス。
2011年7月23日、エイミーはこの世を去った。
本当に信じられなかったしショックだった。
報道によると彼女はロンドンのカムデンのフラットで遺体となってるのを発見された。
死因は急性アルコール中毒ということがわかっているが、当初はドラッグのオーバードーズではないかと言われていた。
彼女の場合は世界的にブレイクした曲がそのまま"Rehab"なわけだから、ドラッグに関する問題が常につきまとっていたといえる。
そのドラッグの摂取量も常人の域を遥かに超えていて(そもそも常人はドラッグなどやらないだろうが)、かのコートニー・ラブをして「あの量でまだ生きてるのが不思議」とさえ言われたほど。
だからいつ死んでもおかしくなかったといえばそうなのだが、おれの中ではキース・リチャーズ、ショーン・ライダー、ピート・ドハーティと並んで「何だかんだ死なずに生き延びるアーティスト」として今後も何とかやってくれるものと願っていたのだが。
おれがエイミーのことを初めて知ったのは2004年1月のことだった。
東京出張の際に空き時間を利用して渋谷のレコード屋に入った時に試聴機に入っていた彼女の1stアルバム『Frank』を見つけた。
「これ全英チャートの30位くらいに入ってたな」と思い聴いてみたら、思いのほか古風な、40~50年代風のジャズボーカルみたいで驚いたことを今でもよく覚えている。
当時からあの鼻にかかった低い独特な声は耳に残ったが、いかんせん古風すぎてすぐには馴染めなかった。
これはまあジョス・ストーンやジェイミー・カラムみたいなイギリスの新しいアダルトミュージックなのだろう、そういう印象のままだった。
それから3年近くが経った2006年の年末、おれは彼女の名前を久々に耳にする。
しかしその時は2004年のそれとは明らかに状況が違った。
1stの時に全く注目していなかったNMEを始めとしたインディー寄りのメディアが、こぞって彼女について騒ぎ始めたのだ。
あの音楽性で、一体なぜ?
そう思って"Rehab"を聴いてみると、それはもう驚いた。
They're trying to make me go to rehab, but I say no, no, no!
えっ、なんだこの歌詞!?
とにかくびっくりした。
自分のドラッグ癖をこんな風に開けっぴろげに、しかも女性シンガーが告白する歌なんてこれまで聴いたことがなかったから。
音楽的にも前作で感じた古臭さはなく、50年代までのジャズボーカルや60年代のガールズグループやソウルのエッセンスを持ちながらも現代的にエッジを立てて作られている。
しかも今まで注視しなかったルックスは、60sガールズグループに顕著だったビーハイブヘアを『フランケンシュタインの花嫁』のようにアレンジし、さらに両腕はタトゥーに覆われている。
何なんだ、この温故知新の奇妙な表現は。
おれは早速アルバム『Back To Black』を買い、2007年の前半はとにかく聴きまくった。
もうその頃には欧米のメディアは「日刊エイミー・ワインハウス」状態で、毎日のように彼女の一挙手一投足の情報が伝えられ、ドラッグのこと、恋人のこと、父親のこと、ライブのドタキャンのこと、ドラッグ問題ためにアメリカに入国できないことなどが速報で伝えられていたものだ。
そういうこともあって、2008年のグラミー賞は彼女が完全制覇していたにも関わらず、入国拒否のため中継でのグラミー参加という異例の事態まで起こしてしまった。
破天荒な性格、破天荒な生き様。
ドラッグ、アルコール、それに男。
滅茶苦茶な人生を一気に駆け抜けて、最後はあっさり死んでしまった。
その歌声とカリスマ性から「現代のジャニス・ジョップリン」と評されることもあった彼女だったが、皮肉にもジャニスと同じ27歳という若さだった。
今でもエイミーの歌声を聴く度に、もったいないなあと思う。
今年で5周忌。
エイミー、安らかに。
毎年この時期になると、あるアーティストのことを思い出す。
エイミー・ワインハウス。
2011年7月23日、エイミーはこの世を去った。
本当に信じられなかったしショックだった。
報道によると彼女はロンドンのカムデンのフラットで遺体となってるのを発見された。
死因は急性アルコール中毒ということがわかっているが、当初はドラッグのオーバードーズではないかと言われていた。
彼女の場合は世界的にブレイクした曲がそのまま"Rehab"なわけだから、ドラッグに関する問題が常につきまとっていたといえる。
そのドラッグの摂取量も常人の域を遥かに超えていて(そもそも常人はドラッグなどやらないだろうが)、かのコートニー・ラブをして「あの量でまだ生きてるのが不思議」とさえ言われたほど。
だからいつ死んでもおかしくなかったといえばそうなのだが、おれの中ではキース・リチャーズ、ショーン・ライダー、ピート・ドハーティと並んで「何だかんだ死なずに生き延びるアーティスト」として今後も何とかやってくれるものと願っていたのだが。
おれがエイミーのことを初めて知ったのは2004年1月のことだった。
東京出張の際に空き時間を利用して渋谷のレコード屋に入った時に試聴機に入っていた彼女の1stアルバム『Frank』を見つけた。
「これ全英チャートの30位くらいに入ってたな」と思い聴いてみたら、思いのほか古風な、40~50年代風のジャズボーカルみたいで驚いたことを今でもよく覚えている。
当時からあの鼻にかかった低い独特な声は耳に残ったが、いかんせん古風すぎてすぐには馴染めなかった。
これはまあジョス・ストーンやジェイミー・カラムみたいなイギリスの新しいアダルトミュージックなのだろう、そういう印象のままだった。
それから3年近くが経った2006年の年末、おれは彼女の名前を久々に耳にする。
しかしその時は2004年のそれとは明らかに状況が違った。
1stの時に全く注目していなかったNMEを始めとしたインディー寄りのメディアが、こぞって彼女について騒ぎ始めたのだ。
あの音楽性で、一体なぜ?
そう思って"Rehab"を聴いてみると、それはもう驚いた。
They're trying to make me go to rehab, but I say no, no, no!
えっ、なんだこの歌詞!?
とにかくびっくりした。
自分のドラッグ癖をこんな風に開けっぴろげに、しかも女性シンガーが告白する歌なんてこれまで聴いたことがなかったから。
音楽的にも前作で感じた古臭さはなく、50年代までのジャズボーカルや60年代のガールズグループやソウルのエッセンスを持ちながらも現代的にエッジを立てて作られている。
しかも今まで注視しなかったルックスは、60sガールズグループに顕著だったビーハイブヘアを『フランケンシュタインの花嫁』のようにアレンジし、さらに両腕はタトゥーに覆われている。
何なんだ、この温故知新の奇妙な表現は。
おれは早速アルバム『Back To Black』を買い、2007年の前半はとにかく聴きまくった。
もうその頃には欧米のメディアは「日刊エイミー・ワインハウス」状態で、毎日のように彼女の一挙手一投足の情報が伝えられ、ドラッグのこと、恋人のこと、父親のこと、ライブのドタキャンのこと、ドラッグ問題ためにアメリカに入国できないことなどが速報で伝えられていたものだ。
そういうこともあって、2008年のグラミー賞は彼女が完全制覇していたにも関わらず、入国拒否のため中継でのグラミー参加という異例の事態まで起こしてしまった。
破天荒な性格、破天荒な生き様。
ドラッグ、アルコール、それに男。
滅茶苦茶な人生を一気に駆け抜けて、最後はあっさり死んでしまった。
その歌声とカリスマ性から「現代のジャニス・ジョップリン」と評されることもあった彼女だったが、皮肉にもジャニスと同じ27歳という若さだった。
今でもエイミーの歌声を聴く度に、もったいないなあと思う。
今年で5周忌。
エイミー、安らかに。
本を読むと不幸になる
今はどうだか知らないが、おれが幼かった頃の大人たちはみんな子供に本を読ませようとしていた。
それも実用書なんかじゃなく、物語の類を。
物語に触れることは子供の情操教育にとって良いことだ――そんな出鱈目がどうやら本気で信じられていたらしい。
とんでもないことだ。
大体、田舎の大人なんて頑張ってもせいぜい『文藝春秋』くらいしか読みやしないのだから、読書がどれほど人生に悪影響を与えるものか本気で考えていないのだ。
そうして、嫌がる子供の脳内に無理矢理活字をねじ込んでいく。
何とも腐りきったペド根性だ。
どうしていたいけな子供に対してそんなかわいそうなことができるのか。
おれにはとても信じられない。
先輩が「子供の涙で贖われる世界になんて価値はない」なんてことをいつも言い続けてたけど、今やおれも全く同じ気持ちだ。
この際だからボリュームをマックスにして言っておきたいことがある。
本を読むと不幸になる。
医学的根拠はない。
だけどボクサーならわかる。
あなたがボクサーじゃなくても、ちょっと周りを見渡してみればわかるはずだ。
グラウンドをホームにしていた鈴木、図書室をアジトにしていた田中、果たしてどちらがより充実した人生を送っていただろうか?
いちいち思い出すまでもないだろう。
もしあなたが大学生なら、文芸系のサークルを覗いてみるといい。
妙に病んだ雰囲気を持った人間がごろごろいることに気付くはずだ。
薬物やリストカットに依存している確率が異様に高い。
サ館を歩けばメンヘラに当たるとはよく言ったものである。
これは明らかに読書の弊害だ。
そんなことないよ、私は本好きだけど超ハッピーだよ、そう仰る方もいるだろう。
確かにネットで見かける読書家の人々は、どういうわけだか人生を楽しく謳歌する素敵な人が多い。
スケートボードとターンテーブルを両脇に抱え、夜な夜なパーティーに出かけていく。
それでいて小説も超かっこいいのを読んでいて、哲学だって嗜んだりする。
そんなイメージだ。
確かに、彼らのように生きられるのなら本くらい読んでもいいかもしれない。
だけどやっぱり彼らの生活を真似するのは簡単なことじゃない。
大部分の人間は、もっと簡単に物語の毒にあてられてしまう。
かくいうおれもそのひとりだ。
ネットの世界ではともかくとしても、おれは田舎の子供にしてはそこそこに読書家だった。
あんな田舎町でカート・ヴォネガットや村上春樹や星新一を愛読していたのだから、これはもう立派なインテリである。
そこでやめておけばよかった。
ところが、おれはそれからも物語を過剰摂取することをやめられなかった。
中毒である。
根気がないせいで知性的な内容の本が読めないのが不幸中の幸い、これでおれに人並み程度の根気と知性があれば、おれは今頃完全に廃人となっていただろう。
やがておれは自分自身の人生にも物語性を強く求めるようになり、もちろん果たせず、膨れ上がった希望に押し潰されそうになりながら、今日もやっとの思いで生きていくことになる。
惨めで辛い話だ。
ああいけない、しんみりさせてしまった。
おれの話はこれくらいでいい。
とにかく、子供に本を読ませることにおれは絶対反対だ。
おれは父親になったとしても、子供に本なんて買ってやらない。
子供は子供らしく外で遊べと言う。
おれは家で優雅に読書を楽しんでいるから、お前は壁に向かってボールでも投げてろと言ってやる。
それがおれたち親子のキャッチボールなんだと言ってやる。
最近、と言ってももう流行りは廃れてしまったが、彼女にアニメを10本勧めるだの何だの言っている輩がいたようだが、いい加減にしろと言いたい。
小説でもアニメでも問題は大して変わらない。
君は愛する人を不幸に陥れて楽しいのか。
猛省を促したい。
最後に、書くかどうか凄く迷ったが、本を読むから不幸になるのではなく、不幸だから本を読むことくらいしかできないという可能性があって、たまごクラブが先かひよこクラブが先かみたいな問題になってしまうのだが、とにかくおれは猛省を促したい。
それも実用書なんかじゃなく、物語の類を。
物語に触れることは子供の情操教育にとって良いことだ――そんな出鱈目がどうやら本気で信じられていたらしい。
とんでもないことだ。
大体、田舎の大人なんて頑張ってもせいぜい『文藝春秋』くらいしか読みやしないのだから、読書がどれほど人生に悪影響を与えるものか本気で考えていないのだ。
そうして、嫌がる子供の脳内に無理矢理活字をねじ込んでいく。
何とも腐りきったペド根性だ。
どうしていたいけな子供に対してそんなかわいそうなことができるのか。
おれにはとても信じられない。
先輩が「子供の涙で贖われる世界になんて価値はない」なんてことをいつも言い続けてたけど、今やおれも全く同じ気持ちだ。
この際だからボリュームをマックスにして言っておきたいことがある。
本を読むと不幸になる。
医学的根拠はない。
だけどボクサーならわかる。
あなたがボクサーじゃなくても、ちょっと周りを見渡してみればわかるはずだ。
グラウンドをホームにしていた鈴木、図書室をアジトにしていた田中、果たしてどちらがより充実した人生を送っていただろうか?
いちいち思い出すまでもないだろう。
もしあなたが大学生なら、文芸系のサークルを覗いてみるといい。
妙に病んだ雰囲気を持った人間がごろごろいることに気付くはずだ。
薬物やリストカットに依存している確率が異様に高い。
サ館を歩けばメンヘラに当たるとはよく言ったものである。
これは明らかに読書の弊害だ。
そんなことないよ、私は本好きだけど超ハッピーだよ、そう仰る方もいるだろう。
確かにネットで見かける読書家の人々は、どういうわけだか人生を楽しく謳歌する素敵な人が多い。
スケートボードとターンテーブルを両脇に抱え、夜な夜なパーティーに出かけていく。
それでいて小説も超かっこいいのを読んでいて、哲学だって嗜んだりする。
そんなイメージだ。
確かに、彼らのように生きられるのなら本くらい読んでもいいかもしれない。
だけどやっぱり彼らの生活を真似するのは簡単なことじゃない。
大部分の人間は、もっと簡単に物語の毒にあてられてしまう。
かくいうおれもそのひとりだ。
ネットの世界ではともかくとしても、おれは田舎の子供にしてはそこそこに読書家だった。
あんな田舎町でカート・ヴォネガットや村上春樹や星新一を愛読していたのだから、これはもう立派なインテリである。
そこでやめておけばよかった。
ところが、おれはそれからも物語を過剰摂取することをやめられなかった。
中毒である。
根気がないせいで知性的な内容の本が読めないのが不幸中の幸い、これでおれに人並み程度の根気と知性があれば、おれは今頃完全に廃人となっていただろう。
やがておれは自分自身の人生にも物語性を強く求めるようになり、もちろん果たせず、膨れ上がった希望に押し潰されそうになりながら、今日もやっとの思いで生きていくことになる。
惨めで辛い話だ。
ああいけない、しんみりさせてしまった。
おれの話はこれくらいでいい。
とにかく、子供に本を読ませることにおれは絶対反対だ。
おれは父親になったとしても、子供に本なんて買ってやらない。
子供は子供らしく外で遊べと言う。
おれは家で優雅に読書を楽しんでいるから、お前は壁に向かってボールでも投げてろと言ってやる。
それがおれたち親子のキャッチボールなんだと言ってやる。
最近、と言ってももう流行りは廃れてしまったが、彼女にアニメを10本勧めるだの何だの言っている輩がいたようだが、いい加減にしろと言いたい。
小説でもアニメでも問題は大して変わらない。
君は愛する人を不幸に陥れて楽しいのか。
猛省を促したい。
最後に、書くかどうか凄く迷ったが、本を読むから不幸になるのではなく、不幸だから本を読むことくらいしかできないという可能性があって、たまごクラブが先かひよこクラブが先かみたいな問題になってしまうのだが、とにかくおれは猛省を促したい。
2016年6月19日日曜日
猫が挨拶回りに来る
ほとんどのストレスの原因とは人間関係であると思う。
それで人が自殺したり殺し合ったりする。
もう人間関係をやめればいいと思う。
もしくは新しい人間関係の築き方を模索してもいい。
人間関係の維持を努めようとしなくても、人は孤独になったりはしないものだと最近気付いた。
結局のところ、人間の大きな恐れの中に「孤立する恐怖」というものがある。
自ら塞げば孤独にはなるだろうし、閉じれば他者と共有はできないだろう。
だがそれは、あなたが他者に遠慮して気を遣いストレスを溜め生きることとあなたが人間関係に重きを置かずに自分らしく生きることとは関係ない。
人は、あなたがあきらめていることについて応援できない。
人はいじけてもいいし、すねてもいいし、恐れてもいい。
君の自由だ。
近所のコンビニに行く。
700円以上の買い物でくじが引けるのは、恐らく客単価が670円くらいだからである。
700円買えばくじが引けるというのはひとつの煽りである。
それはコンビニの勝手な都合である。
当たりが欲しいわけではない。
おれはこんなくじは別にいらない。
くじを引く度におれは5秒間コンビニに時間を取られている。
くじを引けるから得をしているわけではない。
おれはお得なキャンペーンのポイントカードもいらない。
食べ放題で元が取れた、得をした、損をした。
これはもうほとんど病気のようにおれには見える。
元とは何だ?
君の存在の根源だろうか?
宇宙の起源たるビッグバンのことだろうか?
ただ不機嫌に「くじ?いらねえ」などと言うとバイトの女の子などは悲しむだろう。
たかだかコンビニに買い物に行くだけでおれは様々な葛藤と対決する。
誰にも得になっていないことを、以前から続けていたという理由でみんなが続けるのが嫌なのだ。
何事も「今なぜそうしているのか?」と問えば、基本的には「今までそうしてきたから」というのが実のところ大きな答えになってはいないだろうか。
しかし、何か大きな変化が起きないかとみんな期待している。
その矛盾を、現実逃避しながらインスタントに解決できる策がある。
芸能人や政治家たちを安全な場所から非難することだ。
あるいはクラスで冴えない奴をいじめることだ。
時にはテロもあるだろう。
戦争も起こり得るだろう。
みんなが涙を流して平和を誓う。
有名人の死をSNSで追悼する。
そしてまた同じことを繰り返すか、あるいはもっと臆病になる。
君が悪なら悪でそれでいい。
悪も存在するからだ。
ただおれが嫌なのは、同じ過ちを繰り返すことなのだ。
それで人が自殺したり殺し合ったりする。
もう人間関係をやめればいいと思う。
もしくは新しい人間関係の築き方を模索してもいい。
人間関係の維持を努めようとしなくても、人は孤独になったりはしないものだと最近気付いた。
結局のところ、人間の大きな恐れの中に「孤立する恐怖」というものがある。
自ら塞げば孤独にはなるだろうし、閉じれば他者と共有はできないだろう。
だがそれは、あなたが他者に遠慮して気を遣いストレスを溜め生きることとあなたが人間関係に重きを置かずに自分らしく生きることとは関係ない。
人は、あなたがあきらめていることについて応援できない。
人はいじけてもいいし、すねてもいいし、恐れてもいい。
君の自由だ。
近所のコンビニに行く。
700円以上の買い物でくじが引けるのは、恐らく客単価が670円くらいだからである。
700円買えばくじが引けるというのはひとつの煽りである。
それはコンビニの勝手な都合である。
当たりが欲しいわけではない。
おれはこんなくじは別にいらない。
くじを引く度におれは5秒間コンビニに時間を取られている。
くじを引けるから得をしているわけではない。
おれはお得なキャンペーンのポイントカードもいらない。
食べ放題で元が取れた、得をした、損をした。
これはもうほとんど病気のようにおれには見える。
元とは何だ?
君の存在の根源だろうか?
宇宙の起源たるビッグバンのことだろうか?
ただ不機嫌に「くじ?いらねえ」などと言うとバイトの女の子などは悲しむだろう。
たかだかコンビニに買い物に行くだけでおれは様々な葛藤と対決する。
誰にも得になっていないことを、以前から続けていたという理由でみんなが続けるのが嫌なのだ。
何事も「今なぜそうしているのか?」と問えば、基本的には「今までそうしてきたから」というのが実のところ大きな答えになってはいないだろうか。
しかし、何か大きな変化が起きないかとみんな期待している。
その矛盾を、現実逃避しながらインスタントに解決できる策がある。
芸能人や政治家たちを安全な場所から非難することだ。
あるいはクラスで冴えない奴をいじめることだ。
時にはテロもあるだろう。
戦争も起こり得るだろう。
みんなが涙を流して平和を誓う。
有名人の死をSNSで追悼する。
そしてまた同じことを繰り返すか、あるいはもっと臆病になる。
君が悪なら悪でそれでいい。
悪も存在するからだ。
ただおれが嫌なのは、同じ過ちを繰り返すことなのだ。
2016年2月28日日曜日
例えばこれが10月の
2月が終れば3月が来るということを無論知ってはいたが、大抵このくらいの時期になると急に理解してしまう。
毎年、性懲りもなく。
2月と3月の間にはいくつもの橋が渡されていて、おれはそこを今はひとりで歩かなくてはならない。
梅の花が例年より早く咲いて散ること、今年は新しい家に住んでいること、いつだったかの桜の木がまだその場所にあること。
沈丁花の蕾や、かさかさになってもまだ茎から折れずにいる紫陽花の枯れた花、見る度に膨らんでいく蕗の薹。
暖かい日の空がだんだん薄まって冬を消していく。
かちかちに冷えた風がやすりをかけたように少しずつ柔らかくなっていく。
前髪が驚くほど早く伸びるので、勢い余って自分で切ってしまう。
髪の毛を切ることなんて何でもないことだったのに。
今は。
理解することは、良いことだよ。
でもすぐに忘れてしまう。
だったらそれは、理解ではなくて単に梅が咲くようなことなのかもしれない。
あるいは散るような。
例えばこれが10月であればよかったかなと考える。
例えばこれが10月の、冷めてしまったコーヒー、気の抜けたビール。
行儀よくならんだレコード、例えばこれが10月で。
しかしおれには想像できない、何度も行きつ戻りつした日々の後ろに枯葉が舞うところや、コートを出し始めるところなんて。
例えばドーナツなしの日曜日なんて想像できないみたいに。
2月が終れば3月が来るのだし、2月が終わるまで3月は来ない。
そして3月が来ればすぐに夏になって、おれたちはいくつかの問題に深刻になりすぎることもなくなる。
日が少しずつ長くなる、
生活は少しずつ変わる、問題を後回しにするという選択を思いつく。
10月が来るまでには髪を何度も切るだろうし、咲く、そして枯れるのだとしても、おれはそれをまた理解しようとする。
毎年、性懲りもなく。
2月と3月の間にはいくつもの橋が渡されていて、おれはそこを今はひとりで歩かなくてはならない。
梅の花が例年より早く咲いて散ること、今年は新しい家に住んでいること、いつだったかの桜の木がまだその場所にあること。
沈丁花の蕾や、かさかさになってもまだ茎から折れずにいる紫陽花の枯れた花、見る度に膨らんでいく蕗の薹。
暖かい日の空がだんだん薄まって冬を消していく。
かちかちに冷えた風がやすりをかけたように少しずつ柔らかくなっていく。
前髪が驚くほど早く伸びるので、勢い余って自分で切ってしまう。
髪の毛を切ることなんて何でもないことだったのに。
今は。
理解することは、良いことだよ。
でもすぐに忘れてしまう。
だったらそれは、理解ではなくて単に梅が咲くようなことなのかもしれない。
あるいは散るような。
例えばこれが10月であればよかったかなと考える。
例えばこれが10月の、冷めてしまったコーヒー、気の抜けたビール。
行儀よくならんだレコード、例えばこれが10月で。
しかしおれには想像できない、何度も行きつ戻りつした日々の後ろに枯葉が舞うところや、コートを出し始めるところなんて。
例えばドーナツなしの日曜日なんて想像できないみたいに。
2月が終れば3月が来るのだし、2月が終わるまで3月は来ない。
そして3月が来ればすぐに夏になって、おれたちはいくつかの問題に深刻になりすぎることもなくなる。
日が少しずつ長くなる、
生活は少しずつ変わる、問題を後回しにするという選択を思いつく。
10月が来るまでには髪を何度も切るだろうし、咲く、そして枯れるのだとしても、おれはそれをまた理解しようとする。
2016年2月1日月曜日
馬鹿の何が悪いのか
馬鹿な人間は喋ってはいけない。
無力な人間は何もするべきではない。
優秀な僕たちの邪魔になるからね。
これはおれの被害妄想である可能性が高いのだが、どうもそこかしこでそんなことを言われているような気がしてならない。
馬鹿と暇人のものだったはずのインターネットにまでこういった論理が幅を効かせるようになった気がして、おれはとても淋しい。
まあ、みんなの言わんとすることもわからないわけじゃない。
自分の専門分野で全く見当違いなことをわあわあ喚かれたら鬱陶しくもなるだろう。
馬鹿は大抵これまでの議論の前提を無視して話を始めてしまうし、自分の感性に無意味な自信を抱いているものだから全く勉強なんてしないしな。
最近の世の中の動きからすると、馬鹿が好き勝手に喋り始めることは「鬱陶しい」を超えて「恐ろしい」の領域に足を踏み入れてるような気もするし。
それで、みんな「馬鹿は黙れ」と言うわけだ。
馬鹿は黙れ。
本当の馬鹿ならエリートに何を言われたって関係なく喋り続けてくれるのだろうが、おれが心配しているのは、馬鹿のくせに他人の顔色を伺う程度には小利口な連中、つまりはおれと大体同じ程度に馬鹿な連中のことだ。
こいつらは全く信用できない。
知性と呼べるようなものは何ひとつ持ち合わせてないくせに、他人に馬鹿だと思われることが怖いものだから、信じてさえいないものに簡単に身を任せてしまう。
あまり頭の良くない人間が物事を正しく選択したいと願うなら、結局は権威主義的に振る舞うことが最も賢いやり方なんだし、馬鹿どもにもそれくらいのことはわかる。
権威を持つ人間が「馬鹿は黙れ」と言ってるものだから、この中途半端な馬鹿どもは彼らの尻馬に乗って「馬鹿は黙れ」の大合唱を始めるんだろ。
それでそのうち馬鹿も「あ、馬鹿っておれのことじゃん」なんて気が付いちゃって、誰も何も喋ることができなくなってしまうんだろ。
おれは自分が馬鹿だと思う人間の意見はフィルタリングして読まないし、おれの意見だってきっと馬鹿扱いでフィルタリングされて読まれていない。
そんなことは馬鹿にだってわかるが、でもだからといって、馬鹿が自分から黙り込んでしまったらこの世はもうおしまいだ。
どうしても頭の良い人間だけで世の中を動かしたいのなら、国会議員なんて全員クビにして官僚だけで社会を運営すればいいじゃん。
無力な人間は何もするべきではない。
優秀な僕たちの邪魔になるからね。
これはおれの被害妄想である可能性が高いのだが、どうもそこかしこでそんなことを言われているような気がしてならない。
馬鹿と暇人のものだったはずのインターネットにまでこういった論理が幅を効かせるようになった気がして、おれはとても淋しい。
まあ、みんなの言わんとすることもわからないわけじゃない。
自分の専門分野で全く見当違いなことをわあわあ喚かれたら鬱陶しくもなるだろう。
馬鹿は大抵これまでの議論の前提を無視して話を始めてしまうし、自分の感性に無意味な自信を抱いているものだから全く勉強なんてしないしな。
最近の世の中の動きからすると、馬鹿が好き勝手に喋り始めることは「鬱陶しい」を超えて「恐ろしい」の領域に足を踏み入れてるような気もするし。
それで、みんな「馬鹿は黙れ」と言うわけだ。
馬鹿は黙れ。
本当の馬鹿ならエリートに何を言われたって関係なく喋り続けてくれるのだろうが、おれが心配しているのは、馬鹿のくせに他人の顔色を伺う程度には小利口な連中、つまりはおれと大体同じ程度に馬鹿な連中のことだ。
こいつらは全く信用できない。
知性と呼べるようなものは何ひとつ持ち合わせてないくせに、他人に馬鹿だと思われることが怖いものだから、信じてさえいないものに簡単に身を任せてしまう。
あまり頭の良くない人間が物事を正しく選択したいと願うなら、結局は権威主義的に振る舞うことが最も賢いやり方なんだし、馬鹿どもにもそれくらいのことはわかる。
権威を持つ人間が「馬鹿は黙れ」と言ってるものだから、この中途半端な馬鹿どもは彼らの尻馬に乗って「馬鹿は黙れ」の大合唱を始めるんだろ。
それでそのうち馬鹿も「あ、馬鹿っておれのことじゃん」なんて気が付いちゃって、誰も何も喋ることができなくなってしまうんだろ。
おれは自分が馬鹿だと思う人間の意見はフィルタリングして読まないし、おれの意見だってきっと馬鹿扱いでフィルタリングされて読まれていない。
そんなことは馬鹿にだってわかるが、でもだからといって、馬鹿が自分から黙り込んでしまったらこの世はもうおしまいだ。
どうしても頭の良い人間だけで世の中を動かしたいのなら、国会議員なんて全員クビにして官僚だけで社会を運営すればいいじゃん。
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