2016年9月18日日曜日
みんな嘘つきだ
「ポジティブ」という単語を前にすると、つい身構えてしまう。
やはりおれはその言葉にどうしようもなく暗いものを嗅ぎ取ってしまって、そこに自らが囚われてしまうことを恐れている……ような気がする。
「私はポジティブ人間ですよ!」という言葉からは、私は世界を美しく楽しいものだと規定しますよ!という悲壮な覚悟が響いてくる(本当は世界は美しくも楽しくもないものだが)。
ああ、この人はこの世界を信じてはいないんだな、そんな風におれは感じてしまう。
勿論それはポジティブだけの問題じゃない。
話をひっくり返してしまえば「私はネガティブ人間ですよ!」という言葉には、本当はこの世界は私が思ってるほど悪くはないはずだ!という無根拠な甘えが漂っているとさえ思う。
ポジティブにせよネガティブにせよ、「あえてこう見る」「あえてこう感じる」なメタ野郎ばかりで、曇りなき眼(まなこ)でものを見ようというアシタカシンキングが欠けている。
そんな絶望の底にあるのは、上半身で例えるならガラス越しのキス、下半身で例えるならゴム越しのセックスみたいなもので、つまるところ、俺たちが本当に誰かと抱き合うことなんて永遠に不可能なんじゃないかという諦念でしかないのだ。
しかしそんなおれの考えも、結局は自分の頭蓋骨から1歩も外に出たことのないものの空論でしかない。
おれたちの認識の向こう側に解釈を超えた真の世界があるなんてことは古代ギリシャの段階でとっくに時代遅れな代物だっただろうし、佐木飛朗斗も真っ青な「スピードの向こう側」な幻想でしかないのかもしれない。
おれたちが抱こうとする「誰か」なんて常に幻なのだと言われてしまえば、さすがのおれも渋々ながら頷かざるを得ない。
あばたもえくぼの例えもあるさ
認識だけが現実だ
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