2016年9月28日水曜日

濡れてしまった洗濯物は放っておこう 手遅れだから

季節はどれも気まぐれなので、少し近付いては溜め息を落として見えなくなってしまう。
噴水の見えるベンチへ腰かけてみれば、滑稽な銅像の上を滑っていく水たちの滑らかな様。
おれは本当はもっと眠っていたい。

この間、親戚が出産したというので見舞いに行った。
ちょうど2週間前に会ったばかりだったので、新生児室に息をしている生き物が、まさか。
途方もない心持ち。
おれたちもかつて生まれたものだった。
いつのまにか死にゆくものになっている。
ちょうど誕生日を迎えたところで感傷的になり、父へ「あと200年生きてほしい」と懇願したところの俺は、生きて2日目という生き物たちとガラス越しに向き合って(あちらは目がまだ見えていないだろう)、まさか。
やはり途方に暮れる。
本当に途方に暮れてしまった。
父も母もああして生まれてきて、おれを生んだ。
それでいて、先に死んでしまう。
それにしてもおれの肌は、この2日目の人たちと比べれば何とも中途半端な古び方をして、父や母のようにまだ体に馴染んでいるという感じもしない。

愛はいつもあるべきところにあるようにあるのに、おれには時々わからない。
確かめようとして、確かめ方がわかるはずもない。
おれはそれがあるべきところにあるようにあるのだということを知っている。
知っていながら、わからない。
だから自分が悪いのだ、そう思うことでしか逃げられない。
それは正しいやり方ではないにしろ、だからといってもっと良い策があるとも思えない。
おれは怖い。
あるべきところにあるようにあるはずの愛が、それがおれのものではないと思うのが怖い。
おれはおれの思っているようにだけ物事を思いたい。
それは恥ずべき幼さなので、箱へしまって家へ置いているけれど、誰でも皆、家へは帰らなければならない。

2016年9月21日水曜日

宇多田ヒカル 最終章

宇多田ヒカルについてずっと書きあぐねたまま、どれだけの時が経ってしまったのだろう。
少なくとも年単位でおれの文章は彼女に触れることを躊躇い続けている。
いや、厳密には何度か軽く触れたことはあったが、いざ深層的なところへ突っ込んでいこうとすると突然文章を書くことができなくなってしまうのだった。

それほど難しいテーマだとは思っていない。
おれは宇多田ヒカルのことはよくわかっている。
わかりすぎている。
にも関わらずおれが彼女について書くことができないのは、書いてしまえば、書いてブログに載せてしてしまえば、きっと彼女はその文章を見つけてしまうだろうことを、子供がサンタクロースを信じるよりも強く信じているからだ。

……などと言ってしまえば、これを読んでいるあなたは「こいついかれてるな」とブラウザを閉じてしまうかもしれない。
おれはそれでもいいと思っている。
なぜなら、このくらいのことでは宇多田ヒカルはブラウザを閉じないということもおれはわかっているからだ。

この宇多田ヒカルに対するおれの盲目的な信頼はどこからくるのだろう。
自分でもよくわからないが、それはもしかすると彼女の発する「同級生」感によるものなのかもしれない。
そう、「同級生」という関係が一番適切だ。
おれと彼女は友人ではないし、ましてや恋人などではあり得ない。
同じクラスにいて、ちゃんと話せば仲良くなれるんだろうなんてことをお互いに(ここが重要だ)思いながら、ろくに関わらないまま卒業してしまうという「距離」。

いつの日かdistanceも抱きしめられるようになれるよ  "FINAL DISTANCE"

「会いたくて会いたくて震える女王」が西野カナなら、「会いたくて会えないdistanceを抱きしめ女王」が宇多田ヒカルであることは明らかだ。
「このdistanceを抱きしめる」という1行に潜む優等生的病理の退屈さはおれたち同級生にとっては確かに親しみ深いものだが、宇多田ヒカルの同級生性はむしろそこにわずかにメンヘラの香りを漂わせているところにある。

勿論、おれたちが思春期を過ごしたあの時代は、メンタルのヘルスが何かしらの機能不全に陥っていることが何かを語るための最低条件とされていた時代だったから、メンへラ的であること自体は問題とするには当たらないし、それは宇多田ヒカルに限ったことじゃない。
椎名林檎、Cocco、あるいは浜崎あゆみでもいい。
当時人気を博した女性アーティストたちに比べれば、むしろ彼女のメンヘラ性は薄すぎるほどだ。
この「薄さ」に、おれたちの同級生性を紐解く鍵がある。
彼女のメンヘラ性は「薄い」わけではなく「薄められている」ということ。
そこに気が付かないのなら、もはやおれに彼女の同級生を名乗る資格はない。

退屈な優等生という彼女のキャラクターは、おれたちの多くがそうであるように、心の闇を意思によって制御しようという方向の努力を重ねてしまう。
そんな風にきつく縛り上げた自我からほんのわずかに漏れ出した闇。
それが宇多田ヒカルが身に纏うメンヘラ的な香りの正体だ。
決して声高に主張されることのない苦しみは、それだけにかえって真実味を増していく。

こういう言い方は我ながらちょっとどうかと思うが、おれは宇多田ヒカルを見る度に「あんた、幸せにはなれないかもしれない」なんてことを思ってしまう。
いっそブレーキの効かない領域までアクセルを踏み込んでしまえば、あるいはもっと楽に生きられるのかもしれない。
しかし聡明なる彼女が選んだのは、もっと地道で、確かな解決法だった。

"光"のMVを思い出してみてほしい。
あのMVには彼女の辿り着いた結論が誰にでもわかる形で表現されている。
そこでは宇多田ヒカルは皿洗いをしながら歌を歌っている。
「皿洗い」というのがポイントだ。
別にこれは彼女の巨乳を強調するためのあざとい演出ではない。
結局のところ心の闇などというあやふやなものは、皿洗いという日々繰り返される確かな「生活」によってやり過ごすしかない。
彼女はそう我々に語りかけている。
 
しかし問題があるとすれば、彼女自身が全くそれを信じていないように見えることだ。
大体、世紀末育ちのおれたちが「生活」なんて退屈なものを受け入れて生きていくことなんてできるわけがなかったのだ。
日常なんてクソ喰らえ。
生活するくらいなら死んだほうがまし、それがおれたち暗黒世代のポリシーだ。

とはいえ、おれたちだって何も生きることを否定したいわけじゃない。
しかしイメージしてほしい。
これから書かれる全ての小説が『プレーンソング』みたいになってしまったら?
あるいは全ての漫画が『よつばと!』になってしまったら?
おれたちは明日からどうやって生きていけばいいというのか。

誤解しないでもらいたいのは、おれはこれらの作品の素晴らしさをよくわかっているつもりだ。
しかしそれは、あくまで数多のファンタジーのうちのひとつだからこそだ。
それを「ただひとつ」の物語だなんてことを言われたら、おれたち暗黒世代はすぐに窒息死してしまうだろう。
恐ろしいことに、現実だとか生活だとかはおれたちにそういったことを平然と押し付けて、まるで悪びれる様子もない。
勿論、聡明な宇多田ヒカルはその恐怖を克服する術もを見つけ出していた。

心の電波 届いてますか? 罪人たちの Heart Station  "HEART STATION"

この歌詞の溢れるような中二っぷりはどうだ。
宇多田ヒカルの同級生性は、おれたちが海辺のエロ本を木の枝でめくっている時にクラスのあの娘は近所の大学生と付き合っていたりするようなところにあるわけで、そんな彼女が中二への回帰志向を見せたのは非常に興味深い事実だ。
しかしながら、おれたちは中二のまま生きていくことはできないという断念はこの曲の中にさえはっきり示されていて、「今も僕らをつないでる 秘密のヘルツ」という歌詞がある。
ピュアな心の持ち主にだけ見えるものだ。
それならdistanceに戻って同級生してた方がいいのかもしれない。

無理はしない主義でも 君とならしてみてもいいよ  “FINAL DISTANCE”
 
この歌はおれの解釈によれば「無理はしない主義でも君となら(セックス)してみてもいいよ」というメッセージに他ならず、結局のところ、物語に憑かれた虚しさと生きることの面倒くささを止揚するのは性しかないという事実に、宇多田ヒカルはごく初期に到達していることがよくわかる。
無限に誤り続けるコミュニケーションの砂浜で一瞬の波を待ち続けること、セックス、おれたちが海辺のエロ本を木の枝でめくっている時にクラスのあの娘は近所の大学生と付き合っているという無力感、それらの光景はおれと宇多田ヒカルとのdistanceの間に点在しているのだから、それらを辿っていけばいずれおれは宇多田ヒカルと「やっと会えたね」ということになるのだろう。

しかしおれが決してそうしないのは、適切なdistanceを保つことに同級生としての節度を見出しているからだし、実際にはおれのクラスに宇多田ヒカル的な人間はいなかったのだけど、クラスの誰よりもやはり宇多田ヒカルはおれの同級生だった。

……などと言ってしまうと、これを読んでいるあなたはまた「ああ、こいつはもう手遅れだ」とブラウザを閉じてしまうかもしれないが、おれはまあ、それでもいいと思ってる。

2016年9月18日日曜日

みんな嘘つきだ


「ポジティブ」という単語を前にすると、つい身構えてしまう。
やはりおれはその言葉にどうしようもなく暗いものを嗅ぎ取ってしまって、そこに自らが囚われてしまうことを恐れている……ような気がする。
 
「私はポジティブ人間ですよ!」という言葉からは、私は世界を美しく楽しいものだと規定しますよ!という悲壮な覚悟が響いてくる(本当は世界は美しくも楽しくもないものだが)。
ああ、この人はこの世界を信じてはいないんだな、そんな風におれは感じてしまう。
勿論それはポジティブだけの問題じゃない。
話をひっくり返してしまえば「私はネガティブ人間ですよ!」という言葉には、本当はこの世界は私が思ってるほど悪くはないはずだ!という無根拠な甘えが漂っているとさえ思う。
 
ポジティブにせよネガティブにせよ、「あえてこう見る」「あえてこう感じる」なメタ野郎ばかりで、曇りなき眼(まなこ)でものを見ようというアシタカシンキングが欠けている。
そんな絶望の底にあるのは、上半身で例えるならガラス越しのキス、下半身で例えるならゴム越しのセックスみたいなもので、つまるところ、俺たちが本当に誰かと抱き合うことなんて永遠に不可能なんじゃないかという諦念でしかないのだ。
 
しかしそんなおれの考えも、結局は自分の頭蓋骨から1歩も外に出たことのないものの空論でしかない。
おれたちの認識の向こう側に解釈を超えた真の世界があるなんてことは古代ギリシャの段階でとっくに時代遅れな代物だっただろうし、佐木飛朗斗も真っ青な「スピードの向こう側」な幻想でしかないのかもしれない。
おれたちが抱こうとする「誰か」なんて常に幻なのだと言われてしまえば、さすがのおれも渋々ながら頷かざるを得ない。
 
あばたもえくぼの例えもあるさ
認識だけが現実だ

2016年9月15日木曜日

西荻窪にて

予報通りの雨が降って、ヘッドフォンの向こう側でジョニー・キャッシュが歌った。
言いたいことの半分も言えず、そもそもこの乱れきった気持ちを言葉に変える術さえ持たず、投げやりな気持ちで過ごしている。
誰かのことを本当に考えるということはやはりそれは自分自身を考えないのであって、このささやかな田舎暮らしを続けることもあのせわしない街の暮らしに飛び出すことも正しくはない気になり、抱えたものの多さに些か驚く。
 
今日はやまだないとの『西荻夫婦』を読み返した。
インディーズからの出版ということで普段とは少し趣向が異なっていて、気の抜けた感じのエッセイ風の展開がおもしろい。
やまだないとは南Q太や魚喃キリコと比べてロマンチックで、その感じが嫌で読まなかった時期もあったが、久しぶりに読んでみると悪くなかった。
 
『西荻夫婦』は文字通り西荻窪に住む夫婦の話で、西荻窪とか高円寺と言われると、それらの地名が持つ記号的な意味合いよりも先におれにとってはとてもローカルで身近な光景が思い浮かぶ。
駅前の怪しいロックバーで飲んで、ツェッペリンの流れる店内でリッチーと呼ばれるバーテンと自称ジミーとかいう常連客に挟まれながらストーンズの話を延々聞かされたりした思い出。
青梅街道から三鷹や吉祥寺に抜ける時の雰囲気もとても好きだった。
 
『西荻夫婦』の後半に、「わたし」が眠りながら「終わりの感覚」に襲われて涙を流すシーンがある。
それはある特定の架空の場所についての想起であり、ある特定の感情に対してのシンパシーだ。
とても痛切で美しいシーンだ。
おれも時々そんなことを思う時があって、それは何かが終わってしまった後の乾いた時間の中で深みも色彩も失った景色が延々と続いていく感じだ。
何よりも悲しいのは日常生活の中で「これがあの場面なのかもしれない」と思うことで、そんな時にはただ目を閉じて、景色が自分の前を通り過ぎていくのをじっと待つことしかできない。