昨日は白く、白い日だった。
海も、空も。
いつの間にか白は終わって、今は黒い。
蛍光灯ばかりが白い。
机や電話機、コピー用紙などは白とは言えない。
白に近いには違いないが、白ではない。
ここには蛍光灯の他、全くの白はない。
そして蛍光灯は、仕事を終えて帰る際には長い紐を引いて消していく決まり。
髪の毛が何だか茶色いようになってきた気がしたので、日付を見ればあれから3ヶ月も経っていて、3ヶ月と思えば、相変わらず時間というものの実感のないおれにはそれがどの程度の年月なのか感じることができない。
ただ、3ヶ月、と思う。
海も、空も。
いつの間にか白は終わって、今は黒い。
蛍光灯ばかりが白い。
机や電話機、コピー用紙などは白とは言えない。
白に近いには違いないが、白ではない。
ここには蛍光灯の他、全くの白はない。
そして蛍光灯は、仕事を終えて帰る際には長い紐を引いて消していく決まり。
髪の毛が何だか茶色いようになってきた気がしたので、日付を見ればあれから3ヶ月も経っていて、3ヶ月と思えば、相変わらず時間というものの実感のないおれにはそれがどの程度の年月なのか感じることができない。
ただ、3ヶ月、と思う。
物事が真実である必要などないと思っているが、それでも人が悲しい目を見るのはつらい。
見たものを、聞いた言葉を信じようと決めてから、しばらくおれの心は順調だった。
順調というのは、つまり穏やかさや険しさをそうあるべき時(それを求められている時)に感じられるということ。
おれの喜怒哀楽は社会や時効に沿っていて、そうすると何だかとても物事がスムーズに進むのだ。
おれを置き去りにして(それは些細な問題だ。なぜならおれはいつでも自分に会えるのだし、自分を置き去りにして物事がスムーズに進むということは、つまりおれはそこに置き去りにされるべきであるのだから)。
でも、いくらか経つと、おれが自分に会うための道のりは無視できないほど長くなっていった。
それはそうだ、物事は進んでいくのだから。
それはそうだ、物事は進んでいくのだから。
しかし苦痛ではなかった。
自分に会いにいくためにどれだけ長い道のりが必要であったとしても。
苦痛だったのは、周りの人々だ。
多くの人々はそれをよしとしなかった。
人間はそのようにばらばらになって生きていくものではないのだとおれに言い聞かせ、ちょうどよいバランスを保たせようとした。
ちょうどよいバランス!
おれをそこから引き剥がしたくせに。
おれは従順だったので、今とは違う、ちょうどよいバランスを学ぼうとした。
そして、またしても体得した。
それは捨てていくことだった。
悲しみを悲しんで、すぐにそれを後ろの方へ流していく。
喜びを喜んで、それもすぐに捨てていく。
あるものを全て拾い集めて、すぐに捨てていく。
そんな風なやり方だったと思う。
そして、またしても体得した。
それは捨てていくことだった。
悲しみを悲しんで、すぐにそれを後ろの方へ流していく。
喜びを喜んで、それもすぐに捨てていく。
あるものを全て拾い集めて、すぐに捨てていく。
そんな風なやり方だったと思う。
日々はめまぐるしかった。
あちらもこちらも人や物や言葉や思想や主義やデータに溢れていて、捨てるべきものも拾うべきものにも事足らなかった。
信じることや疑うことをやめにして、ただものを知り、分解し、咀嚼し、排泄していった。
そうして痩せっぽっちのおれができあがった。
おれはあの時、間違いなく惨めだったのだ。
でも、言えなかった。
言おうなどとも思わなかった。
自分が惨めであることは知っていた。
知って、それさえも後ろへ、後ろへ、捨てていった。
それを後方の森にいたおれが全て拾い集めていた。
拾い集めて、そして全部本当に燃やすように、捨ててしまうつもりだった。
でもそうではなくて、おれは今生きているので、それらをゆっくりと咀嚼している。
物事を考え尽くした後で感じている。
でも、言えなかった。
言おうなどとも思わなかった。
自分が惨めであることは知っていた。
知って、それさえも後ろへ、後ろへ、捨てていった。
それを後方の森にいたおれが全て拾い集めていた。
拾い集めて、そして全部本当に燃やすように、捨ててしまうつもりだった。
でもそうではなくて、おれは今生きているので、それらをゆっくりと咀嚼している。
物事を考え尽くした後で感じている。
どうしてそれと一緒に行ってしまわなかったのだろう?
そうしたらきっと、こんな風にばらばらに悲しむこともなかったに違いないのにと、少しだけ思う。
だけど、それだって仕方のないことだ。
全てはそうするしかなかったという風にできているし、何も動かせない。
「死んでもいい」というのと「生きていける」というのは度々幸福の表現として用いられるが、それを常に同じ瞬間に感じている。
幸福の以前はおれは死にたくなかったし、生きたくもなかったし、生きていけるとも思っていなかった。
だけど、今は死んでもいいし、生きていけると思う。
よかったね、と思う。
自分自身に対して。
とにかく今は、薬を飲みすぎてぼんやりして、何日も顔も洗わず服も着替えずに、ぱりぱりになった髪の毛を神経質に指でほぐすなんていうのとはとても遠い場所に来ている気がして、でも、一瞬でそこへ行ける。
それは、薬を買ってくればいいとか仕事を辞めればいいとかそういうことではなくて(勿論それもあるが)、戻れるというのは戻りたいということと似ているから、だから嫌だ。
みんながみんな口を揃えて「よかったね」という今の状態を、それはそうだろう、幸福で、清潔で、明るいのだから。
不幸でこそはなかったが、不潔で、暗くて、あの場所、あの場所に、わずかながらも(わずかですらないかもしれない)、幸福を感じていた自分自身を、どうして誰もわかってくれないのだろう。
そう思ってしまうのが、凄く嫌だ。
馬鹿馬鹿しいことだ。
本当に幸福なら、誰にも認めてもらう必要なんてないはずだから。
でも、知っている。
あの時はそうだった。
誰にも認めてもらう必要はなかったし、誰かが悲しんだって悲しくなかった。
そうしたらきっと、こんな風にばらばらに悲しむこともなかったに違いないのにと、少しだけ思う。
だけど、それだって仕方のないことだ。
全てはそうするしかなかったという風にできているし、何も動かせない。
「死んでもいい」というのと「生きていける」というのは度々幸福の表現として用いられるが、それを常に同じ瞬間に感じている。
幸福の以前はおれは死にたくなかったし、生きたくもなかったし、生きていけるとも思っていなかった。
だけど、今は死んでもいいし、生きていけると思う。
よかったね、と思う。
自分自身に対して。
とにかく今は、薬を飲みすぎてぼんやりして、何日も顔も洗わず服も着替えずに、ぱりぱりになった髪の毛を神経質に指でほぐすなんていうのとはとても遠い場所に来ている気がして、でも、一瞬でそこへ行ける。
それは、薬を買ってくればいいとか仕事を辞めればいいとかそういうことではなくて(勿論それもあるが)、戻れるというのは戻りたいということと似ているから、だから嫌だ。
みんながみんな口を揃えて「よかったね」という今の状態を、それはそうだろう、幸福で、清潔で、明るいのだから。
不幸でこそはなかったが、不潔で、暗くて、あの場所、あの場所に、わずかながらも(わずかですらないかもしれない)、幸福を感じていた自分自身を、どうして誰もわかってくれないのだろう。
そう思ってしまうのが、凄く嫌だ。
馬鹿馬鹿しいことだ。
本当に幸福なら、誰にも認めてもらう必要なんてないはずだから。
でも、知っている。
あの時はそうだった。
誰にも認めてもらう必要はなかったし、誰かが悲しんだって悲しくなかった。
おれはひとりで、壁の白を数えて、飽きたら眠った。
許されないようなことをして、でもそれが何だったか、今ではひとつひとつは思い出せない。
毎朝、毎晩、もう過ぎたことだと蓋をする。
一瞬で両極を味わう。
許されないようなことをして、でもそれが何だったか、今ではひとつひとつは思い出せない。
毎朝、毎晩、もう過ぎたことだと蓋をする。
一瞬で両極を味わう。
当然のことだ。
あらゆる意味において、おれはもうひとりでは生きていけない。
あらゆる意味において、おれはもうひとりでは生きていけない。