2016年9月15日木曜日

西荻窪にて

予報通りの雨が降って、ヘッドフォンの向こう側でジョニー・キャッシュが歌った。
言いたいことの半分も言えず、そもそもこの乱れきった気持ちを言葉に変える術さえ持たず、投げやりな気持ちで過ごしている。
誰かのことを本当に考えるということはやはりそれは自分自身を考えないのであって、このささやかな田舎暮らしを続けることもあのせわしない街の暮らしに飛び出すことも正しくはない気になり、抱えたものの多さに些か驚く。
 
今日はやまだないとの『西荻夫婦』を読み返した。
インディーズからの出版ということで普段とは少し趣向が異なっていて、気の抜けた感じのエッセイ風の展開がおもしろい。
やまだないとは南Q太や魚喃キリコと比べてロマンチックで、その感じが嫌で読まなかった時期もあったが、久しぶりに読んでみると悪くなかった。
 
『西荻夫婦』は文字通り西荻窪に住む夫婦の話で、西荻窪とか高円寺と言われると、それらの地名が持つ記号的な意味合いよりも先におれにとってはとてもローカルで身近な光景が思い浮かぶ。
駅前の怪しいロックバーで飲んで、ツェッペリンの流れる店内でリッチーと呼ばれるバーテンと自称ジミーとかいう常連客に挟まれながらストーンズの話を延々聞かされたりした思い出。
青梅街道から三鷹や吉祥寺に抜ける時の雰囲気もとても好きだった。
 
『西荻夫婦』の後半に、「わたし」が眠りながら「終わりの感覚」に襲われて涙を流すシーンがある。
それはある特定の架空の場所についての想起であり、ある特定の感情に対してのシンパシーだ。
とても痛切で美しいシーンだ。
おれも時々そんなことを思う時があって、それは何かが終わってしまった後の乾いた時間の中で深みも色彩も失った景色が延々と続いていく感じだ。
何よりも悲しいのは日常生活の中で「これがあの場面なのかもしれない」と思うことで、そんな時にはただ目を閉じて、景色が自分の前を通り過ぎていくのをじっと待つことしかできない。

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