2017年1月5日木曜日

親の愛が社会を束縛する

大体ね、もう21世紀になって16年も経っているんだから、その辺のおっさんやおばさんだってそれは相当に自由な考え方を身に付けているはずなんだ。
マツコ・デラックスやぺこ&りゅうちぇるがお茶の間の人気者になるような時代だ。
決まりきったことだろう。
隣人がどんな生き方を選択してもいちいち口を挟むような必要はないし、法律や制度だってもっと様々な人たちの権利を認めていくように変えてしまって構わない。
そんな風に考える人は、例えば20年前よりもずっと多くなっているはずだ。

にも関わらず、おれたちの暮らすこの社会はまだそれほど自由なものにはなっていない。
最近また息苦しさが増してきているような気さえするほどだ。
それはなぜかという話だ。
ひとりひとりは自由な考え方を持っているはずなのに、なぜ社会は自由じゃないの?という話だ。

結局のところ、それは未だおれたちがそれほど自由じゃないからなのだと思う。
まあ全然自由でないかといえばそんなこともなくて、自分自身や隣人については今や相当に自由なのだろう。
例えばおれが友人に対して「どんな生き方をしていようと友達は友達だ」と言うことはできる。
自分自身の社会一般の枠組みから外れてしまった部分について認めることも、決して簡単なことではないだろうが、多分できる。

難しいのは、自分の子供に対して同じことを言ってやれるかということだ。
以前、"ただ「ひとりでいい」と言ってほしかった"という記事を書いたことがあったが、あれは子供の視点に立っていたからあんな物言いをすることができた。
確かにおれは「ひとりでいい」と言ってほしかったけど、自分が子供に対して「ひとりでいい」と言ってやれるかというと、全く自信がない。
一歩間違えると、みんなと同じことを楽しみ、みんなと同じことを考えるような子供、子供らしい子供に育ってほしいとさえ思うかもしれない。
「男の子なんだからこうしなさい」とか「女の子なんだからああしなさい」とか、そんなことさえ口走ってしまうかもしれない。

おれはきっと「自らの価値判断でそんなことを言うのではない」と弁明するだろう。
人間は自由だ、しかし自由に生きることはリスクが高い、子供にはそんな想いをしてほしくない、これは単純に損得勘定の話なんだ……などと。
おれの言いそうなことなんてすぐに想像がつく。
全くもって退屈な物言いだが、おれはきっと真剣にそういった言い訳を重ねていくのだろう。

人と違う生き方は、それだけ苦労も多くなる。
自分自身がそれを選択することはできても、子供にはそれを負わせたくはない。
そもそも、そんな選択自体をさせたくない。
何の疑問も持たず大人になって、ごく普通の家庭を築いて、孫の顔を見せてほしい。

そういった考え方が、社会をガチガチのまま保っている大きな力だ。
子供に対して期待する事柄は、未来に対して期待する事柄とイコールだからだ。
子供にごく普通に育ってほしいと思うことは、社会がごく普通のままであり続けてほしいと願うことだからだ。
そんな考え方を抱いてしまうおれこそが、どんな差別主義者よりも強大な抵抗勢力なのだということはわかっている。
今のところ子供を作る予定もできる予定も全くないが、もしおれが人の親になったとしても、このままでは子供に新しい社会をプレゼントしてあげられそうもない。