2017年7月16日日曜日

あなたは隠し事だらけ

もう随分と、会話をするのが難しく感じる。
自分の気持ちを説明しようとするととても長い文章が必要になるが、それはもう会話ではなく言葉になってしまう。
淀んだ言葉は会話にはならないし、人との関係の中では時に使いにくい。
なので、齟齬を承知でおれは先に進まなければならない。
そういったことにおれは多少の苦痛を感じる。
だけどおれは生活しているし、できるだけ社会的に生きていきたい。
会話に対する修練不足なのだと思う。

おれは今、会話が少しだけ恐ろしい。
あらゆる例を立てて、自分の表す事柄が小さな一例に過ぎないこと、そして自分と相手では意見が違うこと、また、意見が違うことは必ずしも対立の理由にはならないことをいちいち積み上げてからではないと具体的な話題に移る際の不安がしこりのように残って、上手くいかない。
だから中途半端で改竄された言葉を使うことになる。
そして相手の返答もまたいちいち小さな一例に過ぎず、例えばそれを否定する気持ちはなくても、主観としてあれこれ理由があるから不安になるのだとか、そういう風に組み立てないと言葉にすることができない。
しかし涙は先に流れるのだ。
おれは、だから他愛のない会話を繰り返すことになる。
洋服の色や、値段や、夕食のメニューや、懐具合なんかの会話。

もっと相手や自分の内面で何が起こっているのかを知りたい。
相手が世の中に対してどういう風に思っているのか、目の前にある物事についてどういう経緯でどういう思いを持つようになったのか、そういった本当の話をしたい。
本当のことを話したいと、いつも思っている。

2017年7月5日水曜日

理不尽と暴力

勿論、自分も含めての話なのだが、幼少期から青年期辺りの経験で、とんでもない理不尽だとか制裁の意味での暴力なんかを頻繁に受けて育った人間って、今考えるとそういうことをやっていた人の意図を理解できない部分がないわけでもないが、やっぱり当時は物凄く不快だったし、恐怖もあったし、とにかく嫌だなと思っていたし、自分はそういう人間にはなるまいと考えたりする人は多いと思う。
多分そういうことって、世代的に昭和の最後の世代くらいまでなのかなと想像したところで、自分たちの世代がみんなそんな考えになっていたとしたら、自分たちの下の世代が理不尽や暴力に晒されず生きていくことになって、そういった行為に嫌悪感を抱く機会も得ずに、その下の世代に対して理不尽や暴力を発信していくことになったら、なんか凄い嫌だなと思った。
実は世の中、そういったことを一世代おきに繰り返しているのです!と力説されたら何だか信じてしまいそうな気がする。

しかしまあ、自分たちの世代なんかは理不尽や暴力を反面教師にしようとしてるんじゃないかなあとぼんやり考えていたのだけど、自分たちの上の世代にもそういう感覚の人はたくさんいただろうし、それでも自分たちの一個上の世代が理不尽に感じるということは、最近の若者はなっとらん!というのが永遠になくならないのと同じようなことなのかもしれない。
それで、自分が一生懸命理不尽にならないようにしていても、相手には理不尽だと思われてるのかもしれない。
しかしまあ、世の中の最大の理不尽と暴力は戦争だと思っているので、戦争から遠ざかっていくと理不尽とか暴力は減っていくのかもしれない。
それだったら、年月が経つほどそういうのは薄くなっていくのかもしれない。
あと、世の中の人が大体話せばわかる人だったらもっと平和になるのかもしれないし、そうでもないかもしれない。