2016年7月31日日曜日

旅先での美しい出会い

旅行が好きだ。
だけどおれは基本的に旅先での思わぬ出会いを喜ぶような人間じゃない。
勿論全く喜ばないわけじゃないんだけど、最終的には煩わしいと感じてしまうことの方が多かったりする。
大して興味のない話にほうほうと相槌を打つのも面倒だし、話が盛り上がったら盛り上がったで今度は話を打ち切るタイミングに頭を悩ませることになる。
さらにこれはおれの経験則から言うが、そもそも見ず知らずの人間に積極的に声をかけてくるような人間には、現役時代にテンプルを打たれすぎたような方も少なくない。
 
昔、とある避暑地に旅行に出かけた時の話。
おれたちは「真の天皇家」を名乗る奇妙な男に絡まれ、小一時間ほど彼の偉大な念能力にまつわる素晴らしいお話を拝聴する事態に陥ってしまった。
彼の念能力は恐らく操作系に属するもので、対象の血族(9代先の子孫をも含む)をまるごと発狂させるという凶悪極まりない性能を持つのだという。
 
彼の話そのものも相当にやばく、きつかったのだが、何よりも辛かったのは、彼の傍らに立つ奥さんが彼の熱弁を本当に目を輝かせて聞くその姿だった。
彼女からはこちらの正気を否応なしに蝕むような陰惨たる気が放たれていて、おれは実際ちょっと頭がおかしくなりかけてしまった……。
 
極端な例を出してしまった気がするが、つまり旅先の出会いには危険がつきものなのだ。
そのことを考えれば、男子たるもの一歩敷居を跨いだならば、目を伏せ耳を噤み誰とも話すことなく歩くべきだ。
 
そんなことを口走ってしまうほどにアレなおれにも、本当に嬉しくなるような出会いというものはある。
ごくごく稀にだが。
不思議なことに、決して旅に出ることない人々との出会いにおいてそんな風に感じることが多い。
ある街や島、限定された空間から一歩も外に出ることなく暮らしながら、羨ましいほどの自由を感じさせる人たちがいる。
 
金沢の街に古くからある喫茶店の女店主も、そんな人間のひとりだった。
彼女は当時60歳を過ぎていたが、正直言って実年齢より10や20は若く見えた。
しかしおれは「お若いですね」などとは言えなかった。
彼女に「若い」なんて言うことはとても失礼なことであるように感じた。
若さ=善などという世間の価値観をそのままに受け入れるような人ではないんじゃないかと思えたから。
 
彼女は年中無休で営業している喫茶店(父親の形見らしい)を開けるために、金沢の街から離れることはできないと言っていた。
ひとつの土地に縛られる生き方なんておれはまっぴらごめんだと思っていたはずだった。
だけど金沢の街に幽閉されているはずの彼女の言葉は、おれの知るどんな人間よりも自由で、美しかった。
おれは彼女と交わした会話をまるごと憶えておきたい。
喫茶店に漂うコーヒーの匂い、窓辺から見た夕焼けのこと、そんなあれやこれやも全部含めて。
 
そしてそれらをこのブログに記してみよう、そう思ったのだが、いざこうして文章を書いてみると何ひとつ説得力のあることを書けそうな気がしない。
旅先で出会ったちょっとおかしな人の話は書くことができても、旅先での本当に大切な出会いについては、まるで言葉にすることができないのだ。
こんな書き方をいつまでも改められないのなら、日々の記録をつけたところで自分の生活を無限に損なうだけで終わってしまう。
受験戦争に敗北した負け犬が集まる頭の悪い高校で高等教育を受けたおれにだってそれくらいのことはわかる。
わかるんだよ、マジで……。

2016年7月30日土曜日

R.I.P. Amy Winehouse

気が付けば7月23日を過ぎていた。
毎年この時期になると、あるアーティストのことを思い出す。
エイミー・ワインハウス。
2011年7月23日、エイミーはこの世を去った。
本当に信じられなかったしショックだった。
 
報道によると彼女はロンドンのカムデンのフラットで遺体となってるのを発見された。
死因は急性アルコール中毒ということがわかっているが、当初はドラッグのオーバードーズではないかと言われていた。
 
彼女の場合は世界的にブレイクした曲がそのまま"Rehab"なわけだから、ドラッグに関する問題が常につきまとっていたといえる。
そのドラッグの摂取量も常人の域を遥かに超えていて(そもそも常人はドラッグなどやらないだろうが)、かのコートニー・ラブをして「あの量でまだ生きてるのが不思議」とさえ言われたほど。
だからいつ死んでもおかしくなかったといえばそうなのだが、おれの中ではキース・リチャーズ、ショーン・ライダー、ピート・ドハーティと並んで「何だかんだ死なずに生き延びるアーティスト」として今後も何とかやってくれるものと願っていたのだが。
 
おれがエイミーのことを初めて知ったのは2004年1月のことだった。
東京出張の際に空き時間を利用して渋谷のレコード屋に入った時に試聴機に入っていた彼女の1stアルバム『Frank』を見つけた。
「これ全英チャートの30位くらいに入ってたな」と思い聴いてみたら、思いのほか古風な、40~50年代風のジャズボーカルみたいで驚いたことを今でもよく覚えている。
当時からあの鼻にかかった低い独特な声は耳に残ったが、いかんせん古風すぎてすぐには馴染めなかった。
これはまあジョス・ストーンやジェイミー・カラムみたいなイギリスの新しいアダルトミュージックなのだろう、そういう印象のままだった。
 
それから3年近くが経った2006年の年末、おれは彼女の名前を久々に耳にする。
しかしその時は2004年のそれとは明らかに状況が違った。
1stの時に全く注目していなかったNMEを始めとしたインディー寄りのメディアが、こぞって彼女について騒ぎ始めたのだ。
あの音楽性で、一体なぜ?
そう思って"Rehab"を聴いてみると、それはもう驚いた。
 
They're trying to make me go to rehab, but I say no, no, no!
 
えっ、なんだこの歌詞!?
とにかくびっくりした。
自分のドラッグ癖をこんな風に開けっぴろげに、しかも女性シンガーが告白する歌なんてこれまで聴いたことがなかったから。
音楽的にも前作で感じた古臭さはなく、50年代までのジャズボーカルや60年代のガールズグループやソウルのエッセンスを持ちながらも現代的にエッジを立てて作られている。
しかも今まで注視しなかったルックスは、60sガールズグループに顕著だったビーハイブヘアを『フランケンシュタインの花嫁』のようにアレンジし、さらに両腕はタトゥーに覆われている。
何なんだ、この温故知新の奇妙な表現は。
 
おれは早速アルバム『Back To Black』を買い、2007年の前半はとにかく聴きまくった。
もうその頃には欧米のメディアは「日刊エイミー・ワインハウス」状態で、毎日のように彼女の一挙手一投足の情報が伝えられ、ドラッグのこと、恋人のこと、父親のこと、ライブのドタキャンのこと、ドラッグ問題ためにアメリカに入国できないことなどが速報で伝えられていたものだ。
そういうこともあって、2008年のグラミー賞は彼女が完全制覇していたにも関わらず、入国拒否のため中継でのグラミー参加という異例の事態まで起こしてしまった。
 
破天荒な性格、破天荒な生き様。
ドラッグ、アルコール、それに男。
滅茶苦茶な人生を一気に駆け抜けて、最後はあっさり死んでしまった。
その歌声とカリスマ性から「現代のジャニス・ジョップリン」と評されることもあった彼女だったが、皮肉にもジャニスと同じ27歳という若さだった。
今でもエイミーの歌声を聴く度に、もったいないなあと思う。
今年で5周忌。
エイミー、安らかに。
 


本を読むと不幸になる

今はどうだか知らないが、おれが幼かった頃の大人たちはみんな子供に本を読ませようとしていた。
それも実用書なんかじゃなく、物語の類を。
物語に触れることは子供の情操教育にとって良いことだ――そんな出鱈目がどうやら本気で信じられていたらしい。
とんでもないことだ。
 
大体、田舎の大人なんて頑張ってもせいぜい『文藝春秋』くらいしか読みやしないのだから、読書がどれほど人生に悪影響を与えるものか本気で考えていないのだ。
そうして、嫌がる子供の脳内に無理矢理活字をねじ込んでいく。
何とも腐りきったペド根性だ。
 
どうしていたいけな子供に対してそんなかわいそうなことができるのか。
おれにはとても信じられない。
先輩が「子供の涙で贖われる世界になんて価値はない」なんてことをいつも言い続けてたけど、今やおれも全く同じ気持ちだ。
 
この際だからボリュームをマックスにして言っておきたいことがある。
本を読むと不幸になる。
 
医学的根拠はない。
だけどボクサーならわかる。
あなたがボクサーじゃなくても、ちょっと周りを見渡してみればわかるはずだ。
グラウンドをホームにしていた鈴木、図書室をアジトにしていた田中、果たしてどちらがより充実した人生を送っていただろうか?
いちいち思い出すまでもないだろう。
 
もしあなたが大学生なら、文芸系のサークルを覗いてみるといい。
妙に病んだ雰囲気を持った人間がごろごろいることに気付くはずだ。
薬物やリストカットに依存している確率が異様に高い。
サ館を歩けばメンヘラに当たるとはよく言ったものである。
これは明らかに読書の弊害だ。
 
そんなことないよ、私は本好きだけど超ハッピーだよ、そう仰る方もいるだろう。
確かにネットで見かける読書家の人々は、どういうわけだか人生を楽しく謳歌する素敵な人が多い。
スケートボードとターンテーブルを両脇に抱え、夜な夜なパーティーに出かけていく。
それでいて小説も超かっこいいのを読んでいて、哲学だって嗜んだりする。
そんなイメージだ。
確かに、彼らのように生きられるのなら本くらい読んでもいいかもしれない。
だけどやっぱり彼らの生活を真似するのは簡単なことじゃない。
大部分の人間は、もっと簡単に物語の毒にあてられてしまう。
 
かくいうおれもそのひとりだ。
ネットの世界ではともかくとしても、おれは田舎の子供にしてはそこそこに読書家だった。
あんな田舎町でカート・ヴォネガットや村上春樹や星新一を愛読していたのだから、これはもう立派なインテリである。
そこでやめておけばよかった。
ところが、おれはそれからも物語を過剰摂取することをやめられなかった。
中毒である。
根気がないせいで知性的な内容の本が読めないのが不幸中の幸い、これでおれに人並み程度の根気と知性があれば、おれは今頃完全に廃人となっていただろう。
 
やがておれは自分自身の人生にも物語性を強く求めるようになり、もちろん果たせず、膨れ上がった希望に押し潰されそうになりながら、今日もやっとの思いで生きていくことになる。
惨めで辛い話だ。
 
ああいけない、しんみりさせてしまった。
おれの話はこれくらいでいい。
 
とにかく、子供に本を読ませることにおれは絶対反対だ。
おれは父親になったとしても、子供に本なんて買ってやらない。
子供は子供らしく外で遊べと言う。
おれは家で優雅に読書を楽しんでいるから、お前は壁に向かってボールでも投げてろと言ってやる。
それがおれたち親子のキャッチボールなんだと言ってやる。
 
最近、と言ってももう流行りは廃れてしまったが、彼女にアニメを10本勧めるだの何だの言っている輩がいたようだが、いい加減にしろと言いたい。
小説でもアニメでも問題は大して変わらない。
君は愛する人を不幸に陥れて楽しいのか。
猛省を促したい。
 
最後に、書くかどうか凄く迷ったが、本を読むから不幸になるのではなく、不幸だから本を読むことくらいしかできないという可能性があって、たまごクラブが先かひよこクラブが先かみたいな問題になってしまうのだが、とにかくおれは猛省を促したい。